スイミング・プール

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ある夏の日、イギリスの女流ミステリー作家サラは、出版社社長の薦めで彼の南仏の別荘に出かける。そこに社長の娘ジュリーが現れ、ふたりの奇妙な共同生活が始まる。ふたりの関係が反発から共鳴へ変わろうとしたとき、スイミング・プールで謎の殺人事件が起こる・・・。

Swimming Pool 2003年

感想

監督はフランソワ・オゾン。

日本でのキャッチコピーは「美しくいたいすべての女性へ」などという奇天烈なものだった。それはマーケティングの失敗だろう。「見る女、見られる女」というのも、確かにサラとジュリーの緊張感を示してはいるのだが、不正確だ。変なキャッチコピーをつけるくらいなら、ないほうがいい。過ぎたるは及ばざるが如し。

オゾンはモチーフに水を使うことが多い。例えば、「まぼろし」。「僕を葬る」。「ふたりの5つの分かれ路」の海。「リッキー」だって池が出る。原作があったのか「エンジェル」には目立つ形で水が出てきた記憶はない。今回の水は、タイトルの通り、プールだ。

現実の延長線上に空想の世界があるサラという人物の意識の流れに従った物語の語り方のせいで、どこからがサラの空想、いや妄想なのか、事実なのかがわからないように作ってある。意識の流れ、というのはヴァージニア・ウルフの書き方なのだが、本作はまさにプールのたゆたう水面のような、サラの意識だった。

本当にサラが会った女はジュリーなのだろうか。サラとすれ違ってもサラを見ようともしなかったジュリアではないのだろう。フランクは本当に死んだのだろうか。サラはマルセルを誘惑したのだろうか。そもそも、ジュリーはいるのだろうか。マルセルの娘と名乗ったあの老女は?なぜ、ジュリーの母親の話をするとおびえたのか。どうしてジョンは一度電話をよこしたきり、一度もサラと話さなかったのか。そもそも、ジュリーが電話でジョンと話していたが、電話の向こうにジョンがいたのだろうか。

そして、ジュリーの母が残したという作品の内容は本当にハーレクインものだったのだろうか。そして、サラの「スイミング・プール」の内容は?

おそらく、「ジュリー」という女はいる。もしくはいた。ジョンの娘の一人だろう。フランスの家の話をしたときに、ジョンが「娘がいるんだ」といっていたが、「フランス人の娘と過ごすための屋敷だったんだ」と続けたのだろう。その娘についてサラの好奇心が刺激され、サニエの演じた「ジュリー」が生まれた。サラは「ジュリー」に会っていないのだ。もしも物語を書いたことがある人ならわかるのではないだろうか。物語の主人公の「物語る世界」が、現実のすぐ側にあることを。いちいち設定する必要なんてない。主人公に出会ってしまえば、主人公が教えてくれるのだから。

フランクは?サラはウェイターのフランクのことが気になってしょうがない。だから、自分の作り出したジュリーに誘惑させたのだろう。フランクはあの晩屋敷にいっていないのだ。だから、サラは隣村のフランクの家に行こうとするのだが、行って無人かどうかは映画の中では描かれなかったのだ。

老女のような娘は、表情やしぐさは若若しいのに「老人」だった。早老症かなにかだろう。小人症でもあるようで、オゾン作品というよりもむしろ、デヴィッド・リンチ作品風になって、物語を余計に混乱させる。ジュリーの母親についておびえたのは、サラが死者をまるで生きているように語ったからだ。

ュリーが自分の母をまるで生きているように語ったのにはわけがある。死んでいることをサラが知らなかったからだ。虚構と現実(サラの母親はすでに死んでいる)が交差した瞬間に設定が変わった。だから、これ以降はジュリーは母を死者として扱いはじめる。

けれど、このような設定、つまり死者を生者として扱う心理状態も現実にはある。やはり、サラは「ジュリー」にあったのだろうか。

私が以前親しくしていた方は、交通事故などで突然肉親を失った方だった。それを、まるで生きているかのように語り続けるのだ。知り合ったのはなくした後で、別の友達とその方の話をしたときに、語られていた肉親がすでになくなって久しいことを知って戦慄したことがある。それと同じだ。ジュリーは母と交通事故にあった。それで母は死に、ジュリーは腹部に傷を負った。ジュリーは突然母親を失ってそのショックから立ち直れていないのだ。死を「知識として」はしっている。けれど、受け入れられていないのだ。

だから、ジュリーが去るときになって、サラはジュリーに腹部の傷のことを聞く。実は私はジュリーの腹部の傷に気づかなかった。DVDで見たからだろうか。当初からあったのだろうか。サニエは脱ぐときにまぶしい光の中にいる。そのせいであるかどうか見るものが気づかないようになっているのだろうか。見せるつもりがあるならば、オゾンはアップにしていると思うのだが。あったのならば、サラの当初の「ジュリー」の設定は帝王切開で出産した、盲腸の手術、などあっただろう。交通事故にあった母と子の話を聞いて、物語が変わったのだ。

次に「ジュリーの母の作品」の中身だ。出版人のジョンの周囲に作家や作家志望の女がたくさんいることは想像に難くない。だから、ジョンの娘の母親、とくれば何か作品があると想像できる。その中身が常に飽和気味なハーレクイン、というのも。ジョンは作品を燃やさせたりするような人物ではない。サラの「スイミング・プール」だって、サラが「燃やせと?」いうと「まさか」という。出版人として、書いたものに対して敬意があるからだ。けれど、存在しない作品だ。もしくは、サラが「スイミング・プール」の中に回収した。

では、サラの「スイミング・プール」は?この物語そのものだ。決して「ジュリーの母親の作品」そのものではない。

「スイミング・プール」が実際にあった出来事ならば、読んだジョンは怒るだろう。

なぜラストに出てきた「ジュリア」は「ジュリー」に近い名前なのだろう。ジュリーはJulieと綴るようだ。ジュリアはJulia。JuliaのニックネームがJulieだ。ジョンの母がJuliaという名だったのではないか。娘たちはその名前を受け継いだ。ミドルネームとしてかもしれない。一人はフランス人、一人はイギリス人。一人は捨てられ、一人はイギリスで育った。どちらかがセカンドネームとしても奇妙だが。ひょっとすると、ロンドンでジョンと暮らす妻はジュリーの存在を知らなかったのかもしれない。

とまあ、私の妄想を語ったが、もちろん、いつものように異論は認めるが、議論するつもりはない。この映画は「サラの意識の流れ」に身をゆだねればいい作品で、解題してそれを押し付けるのは野暮というものだ。

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