パリでファッション・フォトグラファーとして忙しい日々を送っていたロマンは、ある日、医者から余命3ヶ月という衝撃の事実を告げられる。同棲中の恋人に別れを告げ、家族にも秘密にしたまま、自分の死と向かい合うことを決めたロマンだが、唯一の理解者である祖母ローラにだけは真実を話した。刻々と迫る命の期限。残された時間で何ができるのか?ロマンはふと、カフェで出会った女性、ジャニィの頼みごとを思い出した…。
Le Temps qui reste 2005年
感想
監督はフランソワ・オゾン。
静かな映画だ。フランス映画の静かな感情表現がじわりとくる。これは「感動」などという安っぽいものではない。
DVDで見て良かったと思うのは、メニューのバックに流れるのが海の波音で(エンドロールと同じ)とても気持ちがよかったからだ。そういえば、オゾンは重要な場面で「水」がよく出てくる。「まぼろし」も海岸だった。「スイミングプール」は「プール」、「リッキー」は池。今回も海岸に始まり、海岸に終わる。
正直なところ、「ゲイとして生きる」ことについてはよくわからない。ロマンは華やかな職業を持ち、一見「満足」しているように見えるが、空虚なようだ。子供が一つのモチーフになっているところを見ると、同性愛ゆえ、子供を残せないことが、人生の一つの引っかかりなのだろうか。子を生すことがないゆえに、享楽的で時に暴力的な性に溺れることができる、その自由の裏側にあるのが、「子を生すことがない」、「根無し草だ」という感覚なのだろうか。だからこそ、幼い頃は「強い愛で結ばれていた」姉に対しては、姉が子供を持っているからこそつっかかるのだろうか。
「同性愛者」にとっての「家族」とは何なのだろうか。異性愛者である家族にはわかってもらえない、というあきらめがあるのだろうか。ロマンは両親の元へ行くのに「僕はみんなを愛している」と自分に言い聞かせねばならないし、コカインを使わなければテーブルにつくことすらできない。そして、自分が死に向かうことを言うことができない。死んだ後に家族が罪悪感を抱くだろうこともわかっている。それでも、言えない。この断絶感。頼ることのできない、頼れない、という絶望感。
唯一言えた祖母は「僕と同じ。もうすぐ死ぬ」から言えた。死を共有するからこその間柄だ。
愛していた故に追い出したサシャに「最後にセックスしたい。君を感じたい」と言っても断られたロマンは、ウェイトレス夫婦の元へ行く。「子を生すことがない」ゲイのロマンが女と寝るためには男が必要だった。(アジア映画では詳しく喋らせる演出をしそうだ。フランス映画は一場面が長まわしなことが多いくせに、パチンと切ることがある。けれど、これは「一万年愛してる」のぶつ切りとは全く違う性質だ。北村監督、オゾンを見ろ〜)
この三人のベッドシーンは奇妙なベッドシーンなのだが、とても美しい。オゾンの撮影するベッドシーンはいつも「事務的」「惰性的」「当事者にとって意味を持たない」という印象を持つのだが、これはとても幸福なベッドシーンに見えた。
ふんと笑ったのは、「子を生すことができない」はずのゲイなのに、「子を生して」死ぬことだった。結局、「男」なのだ。十月十日体内で育む女ではこの映画は成立しない。アジア映画であれば、この「子を生して死ぬ」ことを「輪廻」と言わせたかもしれない。「生き返る」と言ったかもしれない。けれど、オゾンはそこまでは言わない。
ロマンを演じたメルヴィル・プポーはラテン系の血が強そうな美男だ。対してサシャを演じたクリスチャン・センゲワルドは北方の血の強そうな美男だ。二人が仲良くいちゃついている回想が可愛らしかった。
難を言えば、日本語タイトルのだささだろうか。もちろん映画をきちんととらえているのだが、「葬る」とかいて「おくる」と読むセンスを疑う。ちなみに原題の意味は「旅立つまでの時間」。