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楊家女将伝 ~女ドラゴンと怒りの未亡人軍団~

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11世紀の中国・宋の時代。時の皇帝は酒池肉林の生活を送っていた。悪政が蔓延し度重なる戦争のため国は崩壊寸前だった。そんな時、宋の北西部に位置する西夏王?朝から侵略を受け、宋・楊家の将軍(リッチー・レン)とその一族は戦いを挑む。しかし男達が次々に死んだため、怒りに燃えた将軍の未亡人・桂英(セシリア・チャン)は未亡人軍団を率いて?戦場へ向かった…。余太君を司令官に据え、武術に長けた未亡人たちが様々な奇策を用いて個々に作戦を遂行。応戦するも、わずか6千人で9万の大軍を相手に戦ううち、次第に形成不利となる。勇敢な女たちも敵の大砲攻撃や火の玉などに次々と襲われる。 未亡人軍団は果たして生き残ることができるのか!

原題:楊門女将之軍令如山 2011年

感想

ミソジニーの少ない女戦士もの

本作で評価するならば、比較的ミソジニーが少ないところだろうか。桂英は山賊出身だし、太君は家長だ。そして孫やひ孫を武官ではなく文官にしたがっている六娘ですらも悪人を成敗する。そこに「女だてら」とかそんな台詞は一切なく、「戦う者」「勇敢な者」として描かれる。

タイトル

なんというタイトルなのだが、仕方がない、キワ者として売らなければ売れないだろう。そんな作品だ。ただ、「女ドラゴン」というのはどこにいたんだろう。敵に女のドラゴンがいたのかと思った。つまり、「女ドラゴンVS未亡人軍団」と思ったのだが、どうも「女ドラゴン&未亡人軍団」だったらしい。ニホンゴハムズカシイネー

セシリア・チャン

ニコラス・ツェーとの結婚と妊娠、エディソン・チャンの写真流出事件に巻き込まれ、第二子妊娠、と長く女優業を休んでいたセシリアの復帰作だった。この作品の出演後にニコラスと離婚することになったのではなかったかと思う。 セシリアと言えば、「喜劇王」のコミカルさから、「ワンナイト・イン・モンコック」の悲惨さ、「忘れえぬ思い」の健気さ、「天上の剣」や「プロミス」の美貌と幅の広い演技のできる女優だった。なのに、本作では戦う以外には、目を見開いたり、泣くのを我慢して顔をこわばらせたり、という演技しかない。演出ミスなのか、演技ができなくなっているのかよくわからないが、女優「セシリア・チャン」を見ようとしてはいけない。 声はいつものガラガラ声ではない。北京語でもあり、おそらく吹き替えだ。たしかに、この顔にはこういう声の方が似合うよねえ、というような声だが。メイキング(ここまで見たぞ!)ではあのガラガラ声だった。

その他キャスト

リッチー・レンその他のキャストも大味な演技で、やはり演出ミスなのかよくわからない。 面白かったのは、八姐役の陳紫函。「君には絶対恋してない」のホイファン!あの吹き替えられていた女優ですよ。びっくりびっくり。この人は結構活躍していた。この人が出るたびに「頑張れホイファン!」と思うのであった。

演出について

アクション映画で役者たちは手を抜いたようには見えないのだが、いかんせん演出が下手。たとえば、オープニングのリッチー・レンのアクションシーンだが、CGがとってもプア。さらにカメラワークが問題なのだろう、カットがいちいち「グリーン・ディスティニー」に「HERO」以前を連想させられた。長まわしなのだろう。最近の細かなカット割りでスピード感を出す演出に慣れていると古っぽく見える。言ってみれば「酔拳」のようなジャッキー・チェンの初期のアクション映画(「酔拳」は面白いよね)を連想させられるのだ。さらに言えば、ジャッキーの早回しはないかわりに、いちいちアクションがスローになるのが演出下手だと思ってしまう。おまけに、重たいもので頭をがーんとやられた、というシーンの演出はネガで見せると言う、マンガチックな演出だった。

ああ。監督は、フランキー・チェン(陳勳奇)。プロデューサーはジャッキーだった。 おそらく買いつけた人は「ジャッキー作品だし。ああ、セシリア?いたね、そんな人」程度で公開前に買ったのではないかと思うのだが、開けてびっくりしたに違いない。なんだか古ぼけた映画なのだもの。だからこそ、キワ物映画として売り出したのだろう。キワ物は結構受けることがあるから。

ストーリーについて

実はこの作品は「予習」をかねて見たのだった。何って?ヴィック・チョウとウーズンという二人のお気に入りが出演する「忠烈楊家將」のため。中国の有名な古典作品は大抵読んでいるのだが、「楊家将」ものは日本には訳文がないために読んでいないのだ。Wikipediaを利用して、私のわかったことを利用して本作と「忠烈楊家將」のよくわからない人間関係の解説を試みてみる。

日本でも太郎(一郎)、次郎(二郎)、三郎、と名付けることがあるように、中国では兄弟を順番に「名字+上からの順+郎」と呼ぶ。娘も「名字+上からの順+姐/妹」というように呼ぶ。嫁は「夫の名字+夫の上からの順+娘」これはニックネームだったり通称だ。水滸伝でも出てくる。孫二娘(そんじじょう)とか。 この楊家にはまず、楊業という男がいて、その妻が太君。この夫婦には七人の息子一人の養子と二人の娘がいる。「忠烈楊家將」でその三男(三郎)を演じるのがヴィック、そして六男(六郎)を演じるのがウーズン。本作で「○娘」と呼ばれていたのは皆この八人の息子たちのお嫁さんたちだ。

陳紫函が演じた八姐は八番目の子供で実の娘だ。その下に妹の九妹がいる。姉妹なので「姉」と「妹」なのだが、中国語で姉妹の「あね」は「姐」なので八姐。

この六郎が生き残り、楊家を再興する。六郎の妻が柴郡主で皇室に連なる人(なので免符を持っているようだ)だ。六郎の妻なので「六娘」と呼ばれたわけだ。本作でリッチー・レンが演じた宗保はこの二人の息子で、その妻がセシリア・チャンが演じた桂英。バカ息子が文広。ということだ。「排風」と呼ばれた人は養女と言っていたが、どうも物語では召使いらしい。召使いが養女になった、ということなのだろうか。

「忠烈楊家將」は物語の前半を扱い、本作は物語の終盤も終盤も良いとこを扱う、という認識だ。違ったら申し訳ない。 おそらく、中国では周知のものなのだろう。だから、いちいち説明がないに違いない。それはおそらく信長ものの場合、光秀、秀吉、家康、三成、勝家、あたりは日本で生まれ育った人ならたいていさらっとわかるが、というところだろうか。 なので、ストーリーが一気にぶっ飛ぶのも仕方がないかな、と思うところである。日本人は本作のマーケティング対象ではないので仕方がない。

電波な深読み

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ムーラン」でも少し気になったのだが、「国のために」という台詞が多いことが気になった。

個人的に知っている方々を見る限りなのだが、華僑ほど「国」に関心のない人々はいない。彼らの関心の対象は家族であり、友人なのだ。けれど、一つ思い出した。何年も前のことだが同世代の才媛中の才媛(80後、八十后)と話をしていて、中国人の愛国心について話が及んだのだが、「それはね、昔は中国は貧しかった。けれど、国のおかげであたしたちは豊かになったからなのよ」と言うのだった。私には皮膚感覚として実感できない感覚だった。それは、アップカミングな中国と、バブル後の日本ではまるで違うのだろうとも思った。同時に、中国においては、才媛ですら無邪気に愛国心を抱くほど愛国教育が刷り込まれているようだ、とも思った。

本作に戻るのだが、「愛国」プロパガンダ映画と捉えることができる。
ムーランも国に裏切られ(援軍が来ない)、自己犠牲(好きな男を譲る)を強いられる。本作でも未亡人たちは国に裏切られ(もう一族に男は一人しか残っていないのに、死地に追いやられ、やはり援軍が来ない)ている。しかし、ムーランは「花将軍は国を裏切らない」と叫ぶし、未亡人たちは奸臣に怒りを覚えつつ、援軍が来ないであろうことを覚悟しつつ従軍するのだ。ムーランは死ななかったが、未亡人たちは何人も死に、主役の桂英も死んでしまう。国のために。

「国のために死ぬ」という台詞は、中国映画のみならず、アメリカ映画にもたくさん出て来る台詞だ。戦後の反省から日本では普通のメディアでは発することのない台詞だが。アメリカ映画は散々見ているので刷り込まれてしまっているのだが、中国映画でこれをやられると気になる。それは中国への恐怖(偏見、差別意識と置き換えられるかもしれない)が生せる技だとも言える。逆に捉えれば、「国のために死ぬ」という台詞がほぼタブー視される日本の現状は極めて特異で、かつ、同調圧力の強い日本の文化の中で「国のために死なねばならない」という圧迫がないことは本当に幸せなことだとも再認識した。

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