ムーラン

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武術に長けたことから、病弱な父の代わりに女であることを封じ戦地で戦った英雄ムーランの壮絶な生き様を描くアクション・スペクタクル!ヴィッキー・チャオ、チェン・クンほか出演。

2009年 花木蘭

感想

盛大にネタバレするのがいつもだが、今回も例に漏れないので注意していただきたい。

駄作の宝庫の香港映画の中でも王さまはジングル・マだと信じている。駄作No.1のショーン・ユーの「男才女貌」の退屈さ、やはりショーンとチェン・クンの「プレイボーイ・コップス」のだささ以降、この人の作品はできたら見たくないのだが、思いながら借りてきた。好き者だ。だがしかし。評価は高い。我ながら驚く。

少女マンガ趣味

ムーランの日になり影になり支えたのが王子さま(お助けマンの意味)の一番手君のチェン・クンと二番手君のジェイシーだった。男装の麗人を一番手君と二番手君が支える、というのは堀北小栗版の「花ざかりの君たちへ」と同じだ。ディズニーもアニメ化したような「ムーラン」という物語をやろうと思えば少女マンガ風の味付けをすることは可能だった。実際、前半は少女趣味全開だった。

強くご都合主義だと思ったのは、処刑されるのを待っていたムーランがその窃盗事件は不問になって出世していくところだし、少女趣味なのは、ラストのカット以外のウェンタイの描き方だった。本作ではチェン・クンは「人が良い」「善良な人」オーラしか出していない。そんな王子さま(お助けマンの意味)ウェンタイの死と復活、そして、ウェンタイの正体(本物の王子さま)は少女マンガの「王子さま」以外の何者でもなかった。

ヴィッキー・チャオとチェン・クン

主演はヴィッキー・チャオ。大きな目が印象的で、「明るい」「健康的」な、大陸出身の「アイドル」と言っていいようなイメージを持っていた女優さんだ。相手役はチェン・クン。リウ・イェが持つような影のないこれまた「明るい」イメージのある俳優だ。あの、ジングル・マがこの二人を起用、とすれば全編少女マンガか、と思っていた。やはり、外連味の強さ、ご都合主義という意味での少女趣味はところどころに見られたが、良い意味で裏切られた。

主演のヴィッキーは「いつもの」お転婆ちゃん。同じような作品ばかり出ているように思うのだが、本作は明るいキャラクターではなく、常に大きな瞳に悲しみを湛えていた。少女マンガから出てきたような女優の周辺には、前半の少女マンガ趣味の中でも少女マンガの映画とは全く違う不穏な空気が流れ続ける。

黙っていてくれる二番手君のシャオフーを演じるジェイシー・チャンもまた「人の良さそうな」ところがよく出た。「インビジブル・ターゲット」で親父ゆずりの大根、と思っていたのだが、しばらくみないうちに結構いい俳優だ。この人の作品は二作目だが、ひょっとしてテレンス・インなみに生き残る確率が低いのかもしれない。

残念なのはチェン・クンにろくな見せ場がなかったことだろうか。

ミソジニー

女戦士ものでミソジニーの要素を含まないものはほとんどないのではないか。
それは、「戦士」の世界は男の世界で、女は常に異質で異端者だ、という前提があるからだ。

ホモソーシャルな中で女は振る舞い方を知らない。だからこそ、才能を開花させ、そしてその才能は凡人に嫉妬されて邪魔される。それが本作では大将軍だからたまったものではない。大将軍はムーランの進言を採用しておきながら、ムーランを陥れる。ここから、物語は少女趣味から大きく脱し始める。ウェンタイが生きていることを明かすところ、正体を現すところはまだ少女趣味だ。ウェンタイに「逃げ出すな、投げ出すな」と言われ、ウェンタイの「死」後はその通りに将軍として生きてきた。捕虜が目の前で惨殺されても兵を動かさずに体制を立て直して突撃をして死地を切り開こうとした。そんなムーランたちを救おうとウェンタイが正体を明かして投降したのに、ムーランは兵を放り出して潜入してしまう。ここも少女趣味にしてミソジニーだ。

リアルさ

ヴィッキー・チャオは「男の世界」を描きたがるジョン・ウーの作品、「レッドクリフ」で唯一「戦う女」を演じた。あのお姫さまの描き方は少女趣味だったが、ジングル・マは本作でヴィッキーにそれを再現させる。けれど、今回はよりリアリティがある。敵の姫君を寝返らせ、自分が敵の総大将を倒すのだ。そして、王子を救うが決して抱きついたりはしない。

功績により大将軍にすると言われても、ムーランは断り村へ帰る。皇帝に女だと告げても、皇帝はムーランの功績により「そなたのような女がいることは我が国のほこりである」として不問に付し、戦友にして愛するウェンタイは和平のためにムーランの目の前で王女と婚約した。それはムーラン自身の望むところでもある。村へ帰れば、ムーランは村では歓待された。けれど、12年間男として生きてきたムーランは、女として生きてきた自分の家は居心地が悪い。鏡を見れば容貌は如実に衰え、手はぼろぼろだ。

友は目の前で死に、愛した王子は敵と和平を結ぶために別の女と結婚する。愛する王子は村へやってきたが、女に戻れば自分は貧しい娘にすぎない。自分が結んだ和平のためには、駆け落ちしようとやってきた王子を帰らせなければならない。愛するが故に、拒絶しなければならない。しかし、「忘れてくれ」ムーランがそういうのではなく、王子がそういうのだ。一夫一妻の時代ではない。第二夫人、愛妾として迎えても良かっただろうに、それもせず、王子はムーランを残して立ち去っていく。

ご都合主義であれば、「ウェンタイ王子は王女を第一夫人とし、ムーランは故郷に暮らしています。王子はやはりムーランを愛し続けましたが、王女の怒りを買わないように静かにムーランの元へ通います。ムーランの暮らす小さな家で、二人は平和を満喫します」という選択肢もあった。

それを選ばず、選んだのは現代的なリアルさだった。ハッピーエンドを求めそうな観客に渡したのは、バッドエンドだった。そこを評価したい。

砂嵐の直後のヴィッキーさんの顔がぶっちゃいくでリアリティがあった。ヴィッキーさんだけではなく、キャストの唇はひび割れて、過酷さ、残酷さを良く表していた。ただ、村で鏡を見るヴィッキーの顔をほとんどいじっていないのはどうかと思う。18くらいの少女は30をすぎた。あの時代だ。髪に白いものが少し混じっていても変ではないし、顔にもっとしわやしみを入れなければ。手だけリアルなのは変だ。

ヴィッキーとチェン・クン二人のシーンはかなりのんびりしている。思うのだがこの監督はメロドラマが好きなのだろうが、メロドラマは似合わないのではないだろうか。もっと小気味良く進め、砂嵐の後の陣の中での二人のシーンとラストショットだけにすると、もっとずどんとくるのではないかと思うのだが。

もう一つ。
魏、と言っていたがおそらく北魏だろう。漢の時代にもう紙はある。普及まではしていなくとも、大将軍の元へムーランの戦功が伝えられるものには紙を使ったのではないかと思うのだが。

ムーラン

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コメント

  1. […] このコンビは「ムーラン」以来だ。あのイメージが強すぎてムーランとウェンタイを小唯が邪魔している、とごちゃまぜに見た私がいけないのだが。いやー、そうすると「小唯、あんた負けるよ?死ぬよ?相手はムーランだよ??」と小唯を引き離したくなるわけだ。実際に一度はムーラン、じゃなかったペイロンの愛ゆえに小唯はペイロンを死なせるのだが、その愛ゆえに小唯はバッドエンドを迎えてしまう。 […]

  2. […] 画皮は女優3人(ヴィッキー・チャオ、ジョウ・シュン、そしてチェン・クン)だったのだが、今回も女優3人映画になっている。チェン・クンは今回はアクションもきっちりあるし、ラブシーンまで(中国映画にしてはかなり濃厚と思う)あるのに、女優にしか見えなくなってきた。前作はムーランと皇子に割っているのかこの牝狐?ヤバいぞ、相手はムーランだぞ、と思ったのだが、今回ヴィッキーはムーランそのまま。というより、黄金マスクに日本風の細身の甲冑が映えて美しいのなんの。ムーランは皇子に暴行を加えなかったのだが、今回の公主はその分まで含めてチェン・クンを殴る蹴るの暴行を働く。ここはスタントだろうか。いや、中国だ、スタントなしかもしれない。ヴィッキーさん、手加減なしにやりそうだし。そしてなんだかチェン・クン、嬉しそうなのだ。 […]

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