実在した零戦設計者・堀越二郎と文学者・堀辰雄それぞれの要素を取り入れ、飛行機作りに情熱を傾けた青年技術者・堀越二郎の人生を描く。
2013年
感想
珍しく、パンフやチャームを買ってしまった。これ以前に買ったのは、ジェイの「言えない秘密」。

フランス映画のような物語だった。無駄を一切削ぎ落し、後は文脈を読め、というタイプだ。
よく少年少女を主人公にする宮崎駿だが、本作は主人公は青年だ。もちろん、利発で活発な少女も出てくる。しかし、ヒロインは死に行く少女だ。これまでの作品とはかなり毛色が違う。
「トトロ」と「もののけ姫」
ふと思うのは「となりのトトロ」の草壁家だ。
浮世離れした学者のおとうさん、結核に倒れたおかあさん。二人は離ればなれだけど深く愛し合っている。そしてサツキとメイ。本作で言えば、おとうさんが二郎、お母さんが菜穂子。サツキとメイは加代。特にサツキに近い。結局草壁家のおかあさんはほどなく死んだだろう。利発なサツキは加代のように医者になったかもしれない。
もう一つは「もののけ姫」だ。ジブリ最高のイケメンはアシタカだと思う。(次点はポルコ)
アシタカは「生きろ、君は美しい」とサンに言う。口説いているのだが。それはアシタカは狂言回しで、主人公はサンだからだ。
本作では菜穂子は二郎に「生きて」と言う。
草壁家のおとうさんもそうかもしれないが、本作の二郎のような人は、生涯に一人だけ愛し、その情の深さから相手を失うと自分も死んでしまうようなタイプだ。サンもオオカミのために命を賭ける。だからこそ、誰かが「生きて」と言われなければならないのだ。
「美少女」
宮崎駿のテーマは「美少女」と「飛行」だ。「美少女」の部分だけを見ると重度のロリコンだ。ヒロインは「カリオストロの城」のクラリス、「魔女の宅急便」のキキ、「トトロ」のサツキとメイ、「ラピュタ」のシータ、「ナウシカ」、「もののけ姫」のサン、「紅の豚」のフィオとジーナ、「ハウルの動く城」のソフィー、「千と千尋の神隠し」の千尋、「丘の上のポニョ」のポニョ、そして本作の菜穂子。並べてみると、いくつかわかる。
まず、四つの系統があること。
クラリス、シータという「守られる存在」。
そして、キキ、サツキ、ナウシカ、サン、フィオとジーナ、ソフィー、千尋、と「切り開く存在」。サブキャラクターまで入れれば、ジル皇女、エボシ御前はここに入る。
さらに、メイ、ポニョ、という聖なる「幼女」。
最後はジーナという母性。ソフィーもここに入るかもしれないし、サブキャラクターまで入れれば、草壁家のおかあさん。
それでも、特にシータのように「守られる存在」から徐々に「切り開く存在」に移行することもあれば、本来「守られる存在」だっただろうに、一気に「切り開く存在」に移行することもある。ジブリ最強のアマゾネスだったはずのサンは徐々に「守られる存在」になっていく。
菜穂子を見てみよう。震災のときの様子を見ると、菜穂子も本来は「切り開く存在」だっただろう。それが、病気により「切り開く存在」であることができなくなった。「サツキ」そっくりな加代と仲良くなるのは自らの属性が「切り開く存在」で、すぐに死に行くことがわかっているから嫉妬することもできないのだ。二郎は菜穂子と出会って傷心が癒える。母性もある。聖性は早死にであることと、戦闘機の設計は菜穂子なしにはできなかったことから見て取れる。(この戦闘機だが、てっきり零戦と思ったら、パンフを見ていると零戦ではないらしい。零戦はラストにちらっと出るだけのようだ)
「風立ちぬ」のダブルミーニング
むしろ、同じく堀辰雄の「菜穂子」の方が本作への引用としては適切なのだろう。「風立ちぬ」というタイトルを使いたいから「堀辰雄」とかき、花瓶のヒロインを「菜穂子」としたのだろうと思ったが、そうではない。本作はあくまで「風立ちぬ、生きめやも」なのである。飛ぶだろうと思う飛行機には「本庄、これは(お前の飛行機は)飛ぶぞ。風が立っている」と二郎は言う。風は飛行機の風だった。タイトルはダブルミーニングになっていて、「飛行機、飛べ」そして、「あなた、生きて」なのだろう。
自分勝手な愛情
私は飛行機に焦点を当てて見たので菜穂子、という人物はいなくても良かったと思う。「生きて」この台詞だけが必要だった。加代の「にいにいさま、生きて」でも良かっただろう。
しかし、菜穂子と二郎に焦点を当てて本作を見ると、不条理にも死別した妻への愛情物語になる。しかも、それは互いに自分勝手だ。
二郎はもはや菜穂子なしには生きられない。喀血したと聞けば、名古屋から東京まで飛んでいく。それでも、すぐに名古屋に戻らねばならない。だから菜穂子は二郎と生きるためにサナトリウムに入る。死期を悟った菜穂子は命が短くなることを知りながら山を下りて結婚する。二郎は菜穂子を生かすためにはサナトリウムで看病してやらなければならないことを知りながら、設計をやめることができない。それは後に書くが「飛行機」が二郎の業だからだ。菜穂子はそれを知っている。それを受け入れて二郎を愛した。二郎は二郎で、菜穂子が側にいるからこそ、なおいっそう設計に熱が入る。遅くまで残業し、帰ってもその側で設計を続ける。二郎は菜穂子をずっと側におき、最期をみとりたかっただろう。けれど、菜穂子は一人サナトリウムに戻り、(描かれないが)間もなく一人で死んだのだろう。お互いに深く愛した二人だったが、自分勝手な愛情でもあった。美しいと思う人もいるだろうが、正直、私の好みではない。
飛行
宮崎駿作品もう一つのテーマが飛行。登場人物たちは良く飛行する。キキは帚に乗って飛行船を救い、サツキはねこバスに乗って妹を探しに行く。パズーとシータは飛行艇に乗り、ナウシカにはガンシップ。ポルコとフィオは飛行艇。ハウルは空を飛び、城の高いところにソフィーはいる。千尋はハクに乗る。サンはオオカミに乗るが、ポニョは空を飛ばない代わりに水。地に足をつけない存在である。
本作では二郎は近眼で飛行機のパイロットにはなれない。だから、二郎は設計する。宮崎駿は何度も「これで最後」といいながら作品を発表する。本作は本当に終わりかもしれないと思うのは、二郎が設計する人だからだ。宮崎駿は空が飛びたかったのだろう。飛べないから宮崎駿は「空を飛ぶ」物語を設計し続けた。二郎は宮崎駿本人なのだ。
「紅の豚」と「ポニョ」
「紅の豚」は飛行機乗りの物語だった。ポルコの見た戦友たちや死んだ飛行機乗りの隊列の幻影。「ポニョ」に出てくる船の墓場。本作は冒頭の二郎少年の夢のところから、ラストの飛行機の墓場までずっと飛行機の隊列の幻影や船の墓場を見させられているようでもあった。
戦争
宮崎駿は戦争を好んで描く。
「ラピュタ」も「ナウシカ」も「もののけ姫」も戦いとその終わり(中断)を描く作品だった。ハウルもハクも戦い続けた。しかし、その終わりを描くことからわかるように、決して戦争を讃美する人ではない。とはいえ、高畑勲のように戦争の悲惨さを前面に出して反戦をはっきり打ち出す人でもない。むしろ、戦いの面白さ、血しぶきの興奮を認め、さらに冷静になったときに覚える「興奮する自分」への恐怖を認識する人だ。その結果としての反戦だろう。
戦闘機を設計した二郎も、爆撃機を設計した本庄も結果的に兵器を設計した。けれど、二人で「兵器を作ったわけじゃないんだよな」「ああ」という会話があったように、作りたいのは兵器ではなく、飛行機だった。二郎は少年時代から飛行機によって人が死んでいく、自分が死んでいく夢を見ている。ラストも、飛行機の墓場だ。作りたいのは飛行機だが、結果として兵器を作り、何人もの人が死ぬだろうことはわかっていたのだ。わかっていて、その恐怖を感じながらも、「日本が破裂するんだな」そうつぶやきながらも、飛行機を作り続けずにはいられないのが二郎の業だった。だからラスト、二郎が「ぼろぼろになりましたが」といったあとのカプローニ博士の言葉が生きる。「それはしょうがない。一つの国が滅んだのだから」
二郎に「生きて」という言葉が必要だったのは、愛する菜穂子を失ったからだけではない。二郎は、「アキレス」本庄の爆撃機があるからこそ、二郎の零戦があるからこそ、日本は徹底的にアメリカによって破壊し尽くされた、と思っている。日本が破裂したのは二郎一人の責任ではない。しかし、破壊されたこと、パイロットたちを死なせたことに大きな責任を感じている。だから、その言葉が必要だったのだ。
「音」で表現する「飛行機」という業
冒頭から、二郎少年の飛行機が単なる少年の夢ではなかったこと、二郎少年が飛行機がどのように使われるかはっきりと認識していたことが描かれる。夢の中の飛行機を操縦する二郎少年だが、上空に大きな飛行艇が飛び、そこから落下するものにより自分も落下する。このときの効果音は人の声だろう。そして、関東大震災の際の地震音、そして火災旋風の音も人の声だ。飛行機に使われる効果音のすべてが人の声だったかはわからないのだが、「ごおおおお」という人の声は禍々しく、二郎の業の深さを非常に上手く表現していた。
本庄と二郎
勝ち気でけんかっ早い「アキレス」本庄は、当時の日本の知識人階級の象徴かもしれない。「追いつけ追い越せ」の世界だ。しかし、「アキレスと亀」ではアキレスは決して亀に追いつけない、という論理問題と同様、「追いつけ追い越せ」では日本は決して欧米を追い越せない。アキレスをいかに亀に変えるか。発想の転換が必要なのだ。その発想の転換、オリジナリティを目指した結果が、戦闘機の最高傑作、零戦なのだろう。設計思想の違いをうまく描いたと思う。
正直なところ、「ホモたちぬ」と聞いていかに萌えられるか楽しみにしてた。本庄の声優が西島秀俊と聞けば期待するではないか。
残念ながら、ほのかなブロマンスではあったが、「シャーロック」だの「ホビット」のゲイゲイしさを見た後では非常にほのかでつつましいもので、私の腐フィルターは発動しなかった。いやまあ、学生時代は「お?」と思わないでもなかったが。これで腐フィルターを発動できる方によって、三菱のライバル主演の薄い本(とくに学生時代)や「女性向け」サイトやブログが雨後の筍の用にできるであろうことは予想できる。
声優
プロの声優が少ないことで有名なジブリ作品だ。本作の主演声優は庵野秀明。カルト的な人気を誇った作品「エヴァンゲリオン」の監督として有名。朴訥とした感じを出すなら、本庄を演じた西島秀俊でも良かったと思うのだが、庵野秀明で正解。孤軍奮闘する、朴訥とした二郎には、こういう人いるよね、という棒読みと滑舌の悪さが似合っていた。あ、棒読みのセリフ回しで、滑舌があまりよくない俳優が一人いた。加瀬亮。加瀬亮でも良かったかも。実写にするなら加瀬亮だな。(加瀬亮と西島秀俊という腐女子に人気の高そうな俳優で実写化したらこれはこれでカルト的人気を誇る作品になっただろう。)少なくとも、いわゆるアニメ声がなくてよかった。あれ、死ぬほど嫌い。
ひこうき雲
早世した人のことを歌った歌だ。見事に本作にシンクロしてしまった。死んでいったパイロットたち、そして菜穂子の歌になってしまった。「ひこうき雲」というアルバムはユーミン(荒井由実、松任谷由実)のファーストアルバムのようだ。まだ高校生だったユーミンが作詞して作曲したものだ。本作で使われているのはいつ録音されたのだろうか。シンプルな編曲と少しあどけなさの残る歌い方は素朴でいて力強い。
今となっては、「将来性」などない年齢のシンガーの「将来」がまだ白紙だった頃の歌。それと、「アキレス」の日本が破裂していく時代の物語が妙にシンクロしていた。
早世した人を描いた曲なのもシンクロしていた。早世した人を悼んだ曲ではなく、「あまりに若すぎた ただ思うだけ けれどしあわせ」と共感を表明した上で、亡くなった「あの子」と生きている「わたし」が「わからない」と決別する曲。
それが、早世した菜穂子、二郎の作った零戦を始めとした戦闘機に乗って早世したパイロットたち。そして戦争の犠牲者たち。二郎は「生きる」ことによって彼らと決別せざるを得ない「風立ちぬ」という作品にぴったりとあう。「風立ちぬ」との大きな違いは「空に憧れた」のは生きる二郎か、早世したあの子なのか、という点だが。
いつのテイクを使っているのだろうか、と思うけれど、ひょっとしてファーストアルバムのテイクをそのまま使ったのかしら、と思うほど新人っぽい。歌い方もいわゆる「ユーミン」の鼻にかかったような声(あれはこぶし?)が少なくて、すごく初々しい。力みはあるのだけど、固くなりすぎず、伸びやか。今の(というか、90年代後半しかユーミンは聞いていないのだけど)歌い方よりはるかに好感が持てた。
そして思うのです。ファーストアルバムにまさるアルバムはなかなか作れないなあ、と。さらに既に固まってしまったシンプルな「アコースティック」な編曲だけが残りうるのかな、と。
コメント
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