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海角七号/君想う、国境の南

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台北でミュージシャンとして成功するという夢に破れ、台湾最南端に位置する故郷・恒春に戻った青年・阿嘉(アガ)。無為に日々を過ごすうち、郵便配達の仕事があてがわれた彼は、宛先不明で未配達の郵便物の中に、今では存在しない住所“海角7号”宛ての小包を見つける。その中には、60年前、敗戦によって台湾から引き揚げる日本人教師が、愛しながらも別れなければならなかった台湾人女性を想って船上で綴った7通のラブレターが。しかし日本統治時代の住所を知る者は、今や誰もいなかった。そんななか、阿嘉は日本人歌手・中孝介を招いて催される町興しライブの前座バンドに無理矢理駆り出される。成り行きで監督役を任された売れない日本人モデルの友子とは衝突ばかり。小学生の女の子や80歳の老人という寄せ集めのメンバーでは練習もままならず、余計にやる気を失っていく阿嘉をよそに、刻々とライブの日は近付いていた…。

2008年 海角七號

感想

不思議な映画だ。

上手い映画かと言われれば、下手な映画だ。綺麗なショットは数少なく、海のショットぐらいしかない。編集も甘いし、外連味が強すぎる。演技も特に田中千絵が壊滅的だ。それでも、ストーリー(ちょっと唐突なところもあるが)とキャラクターで引っ張ることのできる映画だ。

范逸臣は「(才能があるのに)売れないミュージシャン」というのがよく似合っていた。実際に、この映画に出るまでは無名だったようだ。ものすごく似合っていた理由は一つ。映画の中でも歌が下手だったこと。

田中千絵は日本で吹かず飛ばずの女優、タレント人生を送った後に「頭文字D」の端役を得て台湾に留学した。その台湾留学中か留学直後かにこの作品に出て、ようやく表に出ることになった。顔を見れば美しいのだけどそれほど印象に残らない。あの手の顔は水川あさみと栗山千明で足りているのだろう。演技はと見れば、日本で売れなかったのもわかる。キャリアは短くないのに大根。確かにこの作品ではヒステリックな役だからヒステリーは良い(これは上手い。これまで売れなかった鬱憤、台湾生活の苦労を上手くぶつけたようだ)のだが、ヒステリー以外が問題。アガに惚れ込むところも関係を持った、以外には伝わってこない。致命的なのは日本語のセリフ回し。監督が日本人ではないから、演技指導ができないのは仕方がないのかもしれないが、棒読みすぎ。加瀬亮の棒読みぶりは、ああ、たしかにこういう喋り方をする男の人っているなあ、と思う「ナチュラルな棒読み」のだが、田中千絵の棒読みは「演じているのに棒読み」なのだ。まあ、仕方がない。ほとんどヒスっている役だから。

中孝介はまあ、いいのだ。キーになるだけだから。日本人教師役も中孝介なのだが、手紙を読み上げているのは別の方。蔭山征彦といって、Tamioと呼ばれているらしい、お人。ただ、この方の読み上げは上手くはないが朴訥としていて嫌いではない。ラスト、日本人教師の娘の手紙を田中千絵が読み上げるのだが、これがとんでもなくひどい、というのがわかるくらいには上手い。

面白いのは脇役と脇役エピソードだ。まずは大大。この子が出て来るシーンはゆるく笑える。特にエレベーターの中でいかにも悪そうな町議長一行が大大の歌に合わせて足でリズムを取り、次に大大が「あーーーーーーーーめーーーーーーーーーーん」とお祈りを捧げて歌を終わらせるシーンなんか傑作だ。町議長も笑える。マラサンが昼間忙しく働いているのを見つけるシーンだが、黒塗りの裏社会専用車の窓から覗く議長の手には手紙の束だ。恋人の息子のアガがさぼった郵便配達を手伝っているところで見つけたからなのだが。

ナチュラルではないストーリー

ストーリーがナチュラルではない、と思ったのは三点。

まず、友子がバンドの監督になるくだりだ。確かにちょうど良いのだが、事務所もすぐにOKするものなのだろうか。

次は友子とアガのラブシーン。それまでにちっとも「いいな」というのがなく衝突を繰り返していたのにすぐに寝られるものなのだろうか。しかも、一度寝ただけで友子のヒステリーは収まるし(フロイト的には正しいが)、アガは「そばにいてくれ。君が行くなら、僕がついていく」などと言う。確かに男と女はわからないものだけど。バチッときてしまったのだろう。けれど、それを主演の二人が表現することができなかったのが残念だ。

最後は「小島友子」が大大のひいおばあちゃんだというのがあっさりとわかってしまうところだ。少なくとも、ルームキーパー(大大の母親)には「私と同じ、友子というの」だけではなく、「小島友子」「海角七号」というところまでちゃんと伝えるシーンがなければ変だ。昔、日本人教師に捨てられた話を祖母は孫にするだろうか?しないだろう。まあ、時間の制約のある映画だから仕方がない。

日本のメタファー

本作は台湾で大ヒットをしたのだが、中国では上映できたのだろうか。再編集せずに商業ベースの公開はできないだろうなあ、と思うくらい本作は台湾の日本への愛にあふれている。

その愛は複雑で一方通行だ。母に捨てられた子供が母を憎み、それでも母を愛することは止められない、といった愛だ。

「野ばら」を歌い続けたボーさん。日本人教師に捨てられた台湾人少女の「小島友子」。これは過去の台湾の日本への愛のメタファーだ。

現代では日本人の男に遊ばれた台湾人のシングルマザー(大大の母親)は日本人の女の友子をずっと気にかけずにはいられないのに、つらくあたる。これは現代の日本と台湾の関係のメタファーとなっている。日本人の男は強い円を背景に台湾に、というよりもアジアに女を買いに行き、面倒がおこると(妊娠すると)捨てる。それだけではない。事実、私の台湾滞在中に台湾のニュース番組で日本や海外情勢でNHKが取り上げられない日はなかったが、日本のニュースで台湾が取り上げられることは滅多にない。現代の台湾は日本に対等に扱われず、怒りを感じているのだろうか。

そして不当なまでに不遜に振る舞う日本人の女の友子は、台湾と関わりを持っても、台湾を対等に扱おうとしない日本のメタファーだ。その友子と愛し合う台湾人の男、アガがいる。アガは友子に言うのだ。「そばにいてくれ。君が行くなら、僕がついて行く」現代台湾はそれでも日本を愛するのだ。未来も日本と共にいたいのだ。

本作は台湾の日本統治時代への単純な懐古趣味ではない。現代、そして未来の日本への愛にあふれているのだ。

日本への愛を高らかに歌い上げたこのウェイ・ダーション(魏徳聖)監督の次の作品は、日本では「反日映画」としてかき立てられた「セデック・バレ」二部作だった。愛を語りすぎたから、商業面のために反日映画を撮ってバランスをとるつもりなのかと思ったが、監督は「反日映画ではない」と言っているとどこかの記事で見た気がする。

ただ、作品としてみると、外連味が強い演出がいくつかあったし、やはり主演女優の演技があまり上手くないのだ。それは致命的。良い作品だけにもったいなかった。

恒春まで足を伸ばす気力はとてもではないけどなかった。このシャトーホテルに一週間ぐらいいると面白かったかもしれない。

台湾のアイデンティティー

アイデンティティとは何か。台湾の場合、大きな意味で「中国(大陸)」か「台湾」か、というものもあるが、本稿では台湾内部でおのおのがどのように自らを位置づけるか、というレベルのアイデンティティを論じたい。

アジア、といっても、台湾の他にきちんと行ったことがあるのはシンガポール、マレーシア、そして香港とマカオだけなのだが、どこもいわゆる旧植民地だ。香港とマカオなどは返還されたのはほんの少し前だ。どこもポストコロニアル時代のアイデンティティ形成に四苦八苦しているように見える。マレーシアはルックイースト政策をとり、マレー人、華人などおのおのの人種を超えた「マレーシア人」の形成のために努力する。日本を手本にしようとしたマレーシアに対して、シンガポールは西洋を前面に出そうとするように感じる。香港は、中国との関係に苦慮し、飲み込まれようとする人、飲み込まれまいとする人がいるように見える。

台湾もそうだ。政治、統治から見てみるとオランダ、中国、日本に支配され、日本統治終了後は共産党と対立してきた。国民党政権下では反日(当然ながら)、そして冷戦下では中国(共産党)という共通の仮想敵がいるために親米・親日にならねばならない。そして今は経済的に中国と親密だ。政治は揺れ動くことができるが、そこに生きる人はどうなのだろうか。右に向けと言われたから右に向くのだろうか、次に左と言われて、左に向けるだろうか。言われるままに向いて生きていくことは悪いことではない。たくましい処世術の一つだ。たくましく生きられる人はいい。

けれども、そうできない人もいるだろう。例えば、禁じられた日本語でドイツの歌を歌うことによって、日本と、そして日本統治時代と関わりを保つボーさんだ。本作でも出て行こうとする友子をぎりぎりのところで引き止めたのはボーさんの「弟の孫の結婚式への招待状」だった。

本省人と外省人

また、「本省人」「外省人」が対立し、などと言う文を見たことはないだろうか。「本省人」とは戦前からいる人々であり、「外省人」とは戦後、蒋介石とともに大陸から渡ってきた人々を指す。ところが、この二種類だけがいるわけではない。「本省人」にも、いろんな先住民族がいるし、「外省人」といっても多様だ。今は本省人と外省人の間に産まれた子供たちももう二代目三代目の世代でもある。

脇役について

本作の脇役たちを見てみよう。
ボーさん(老人)は片言の日本語を喋り、「野ばら」を歌う。明らかに本省人だ。日本統治時代を懐かしむような人だ。

アガは台湾語を操るところから見ても本省人だろう(俳優の范逸臣はアミ族らしい)。台北で成功できず、尾羽うち枯らして帰ってきたような人だ。

ローマー(警察官)は先住民のルカイ族だし、本省人だ。台北ではエリート集団にいたのに、妻に逃げられ、故郷に帰ってきたら父親と一緒に交通整理をするような人だ。

大大は母親の祖母が「小島友子」でもあり本省人の血を引く。けれど、父親が日本人であることがほのめかされる。子供だが、浮いている。

マラサンは客家人だ。大陸から各地に散らばっていった漢民族だ。よそ者扱いされているが、隣町の出身者だし、「客家人」と言われるくらいだからおそらく本省人だ。外省人ならばそう呼ばれるだろう。排他的なところで彼が成功するのは難しい。

一人、よくわからないのがカエル(バイク屋の店員のドラマー)だ。濃くてはっきりくっきりした本省人たちと比べるとやや浅めの顔立ちで、外省人かもしれない。恒春の人なのでよそ者扱いされないが、やはり客家人かもしれない。やはり、彼も道ならぬ恋に落ちて、しかも成就しそうにもない。

本作ではそんな「ばらばら」な人々、しかもいわゆる「負け犬」であることが唯一の共通点、という人々が一つのバンドを結成する。 (負け犬、負け組の寄せ集めバンドは小さな町で一応の成功を収める。それによって、セカンドチャンスがあることを示すのだが、これはありきたり。)

新しいアイデンティティ

台湾におけるアイデンティティというものは、正直私にはよくわからない。けれど、議長の描き方を見るに、本省人、外省人、客家人、と言われるように、おのおのの出身母体にあったのではないか、と思う。もう一つ、本省人には支配してきた外省人への反感などいろいろあっただろう。けれど、それを乗り越える台湾、バンドはそんなメタファーではないかと感じた。日本統治時代があった。国民党独裁時代があった。そして民主化された。今度は中国(大陸)だ。その中で人々は振り回され、また対立してきた。けれど、全てを飲み込んだ「台湾」というアイデンティティを形成しようとしているのではないかと感じたのだ。

「乗り越える」メタファー、「乗り越えよう」のメッセージはもう一つ隠されている。それは議長だ。議長は恒春の人で、台湾語を喋るし本省人だろう。けれど、ホテルオーナーはよそ者だ。議長は隣町出身のマラサンをよそ者扱いするし、バンドも地元のバンドでなければいけないとよそ者のホテルオーナーにねじ込む。議長は町を愛する人なのだが、童子に極めて排他的だ。それが、努力家のマラサンを見てボーさんの弟の孫の結婚式ではマラサンに酒を大口注文してやるのだ。一歩なのだが、一つ近づいている。これは、「乗り越える」道のりはまだ遠いこと、けれど一つずつ近づいて行くことのメタファーだと感じた。

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コメント

  1. […] 確かにウェイ・ダーションの前作「海角七号」は日本へのラブレターと読めなくもない。 […]

  2. […] エンドロールに「陰山征彦」(海角七号で手紙をほぼ棒読みしていた人)や「北村豊晴」(「一万年愛してる」の監督)の名前が日本語指導などのところにあった。台湾の映画・ドラマ制作事情をよく知る日本人がしっかりと入っていてきっちりと指導したのだろう。ただ、現代的すぎたような気はしないでもないが。 […]

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