時は清朝―第5代皇帝の雍正帝(ようせいてい)は、宮廷内において自分に反目する政敵たちを排除するため秘密裏に精鋭たちを集め、暗殺部隊“血滴子”を結成。邪魔者たちを暗殺兵器で次々と抹殺していく。
部隊の総領官は、隊員の冷らに革命闘士のリーダー、天狼の暗殺を命じるが、逆に天狼たちの反撃に遭い、仲間が捕らえられてしまう。天狼を追跡する冷は、仲間から尊敬を受け革命を行う彼の姿を見て、暗殺者として生きてきた自分に疑問と葛藤を感じ暗殺を断念してしまう。それを知った朝廷は、冷と義兄弟である親衛隊の海都に“血滴子”の抹殺を命じる。反逆者として、一転、追われる身となった冷は、仲間たちが次々と命を落とす中、やがて天狼と再び対峙する。そこへ海都率いる屈強の朝廷軍が迫る。果たして彼らの運命は…。
血滴子 THE GUILLOTINES 2012年
感想
監督はアンドリュー・ラウ (劉偉強)。
香港映画の製作陣が香港人俳優(ショーン・ユー)、大陸人俳優(ホァン・シャオミン)、そして台湾人俳優(イーサン・ルァン)で送る。
ああ、いつもの大陸映画ね。CG多すぎ。アンドリュー・ラウの失敗作かなと思ったのだが様子が違う。
ラスト、ランは皇帝の汚点である血滴子の最後の一人である自分は近侍でもあるがために死なねばならないと考える。ハイドゥはその助命を嘆願するが、皇帝は答えない。それで映画が終わった。いつもの香港映画ならば、いや、アジア映画ならばランの体がそのまま倒れるだろう。しかし、今回は皇帝の顔で終わり、乾隆帝が満州人と漢人の融和を図ったことを文字でのみ伝える。ああアメリカ映画的だ。フランス映画ほどの省略はないのだが、「表現しない」という、引き算をようやく香港映画も学んだのかもしれない。
結局「楊家将」より面白かったではないか。
絶妙なキャスティング
検閲にはひっかかるまい。キャスティングが絶妙なのだ。
処刑していくハイドゥはいかにも華南の男という顔の香港人のショーン・ユー。ハイドゥは勅命とはいえ、残虐なヒールである。これまた華南っぽい顔をした大陸人のホァン・シャオミンが漢人の楽園を作って、台湾人のイーサン・ルァンにそれを見せる。
イーサン・ルァンとホァン・シャオミンが反対の役であってはならなかった。ヒールはショーン・ユーでなければならなかった。絶妙なバランスである。
少数民族問題
それでありながら、今回は少数民族問題を扱っている。まさに、表現の自由のない場所で、人は様々な表現方法を生み出すものだ。問題があるからこそ、時代劇を使う。現代中華人民共和国が否定する、清朝は政権批判の恰好の舞台なのだろう。
清朝は満州人による王朝であった。漢民族の中には反清復明を唱えるものもいた。ここからいわゆる三合界(中国マフィア)が生まれていく。その過程では漢民族(の一部)に対する弾圧があったことが容易に想像できる。今の中国の抱える少数民族問題と何が違うのだろう。
ハイドゥによる虐殺は中央政府によるチベットやウイグルの弾圧のようにも見える。
「やられたらやりかえせ」
天狼は漢人をあおる。そこには一種の正義がある。少数民族のテロの背景を想像させるではないか。
ランはハイドゥ(朝廷)と天狼(弾圧される者)をつなぐ。ハイドゥにも、天狼にもどちらにも義があり、道理がある。どちらにも共感したランは皇帝に言葉を伝えて死ぬしかなかった。ランは「不公平であること、格差が不満を生む。民がみな清の民であれば」と皇帝に語る。その皇帝こそ、乾隆帝。満州人と漢人の融和を図った。
まさに、中国という政府に対して言っているではないか。不公平な扱いをするから、格差が生まれ、不満が生じる。民が皆中華人民共和国の民として平等に扱われるなら動乱は起きない。
しかし、そのメッセージは日本人である私に届いてもほとんど意味がないのである。伝えなければならないのは大陸にいる人々なのだ。テロの被害を受ける当事者に、そのメッセージは伝わるのだろうか。憎悪が憎悪を呼ぶ世界なのかもしれない。それは、9.11ののちのアメリカであっても同じだった。「ホームランド」ですら、ブロディの葛藤を描くがアブ・ナジールの側に義はほとんどなく描く。
伝えたい人に伝わらず、外にいる人には明確に伝わる。中にいるから、わからないのだ。
キャスト
日本版のパッケージはイーサンではなくシャオミンメインになっている。この三人では誰が一番日本で知名度が高いのだろう。案外、イーサンではないかと思うのだが。でも、台湾ドラマファン層と本作は合わないから仕方がないか。
明らかに華南の男、ショーンが誇りたかき満州人というのも変な感じだった。イーサンではなく、いっそニコラス・ツェーを起用すれば三人区別がつかない人もいたに違いない。
書きたいのは主演三人ではなく、女優李宇春。
日本映画でもハリウッド映画でも、フランス映画でも女優がいれば必ず主人公の恋人になる。ところが本作ではそれはない。それが中華映画というものだ。男を描けば、そして男社会で生きる女を描かせればぴか一だと思う。確かにムーセンとランは間に何かがありそうだ。しかし、「兄弟」である血滴子の中の一人として、ともに育った仲間としての友情と感じた。本当に中国映画はミソジニーが少ないアクション映画が上手いと思う。見覚えがあって、「孫文の義士団」にいたね。さらに「ドラゴンゲート」で男装していた。アクションのできる女優は貴重。是非精進して下さい。