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さらば、わが愛 覇王別姫

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幼いころから北京の京劇役者養成所で厳しい訓練を受けながらも、兄弟のように共にかばいあい慕いあって成長したシャオロウ(小楼)とティエイー(蝶衣)の二人。
やがて逞しい青年に成長したシャオロウは立役者、華奢な美少年のチョンは女形として、京劇『覇王別姫』の名役者として人気を得る。
しかし、時代は日本による統治、第2次世界大戦、共産党政権樹立、文化大革命と、かつてない動乱を迎え、いやおうなく二人もその趨勢に翻弄されてゆく。
どんな苦境にあってもティエイーはシャオロウへの想いを抱き続けるが、シャオロウは高級娼婦のジューシェン(菊仙)と結婚してしまう―。
愛と、芸術と、動乱の中国に生きた人々の姿を描く一大叙事詩。

1993年 覇王別姫

感想

これ以降、チェン・カイコー(陳凱歌)の作品は何作か見たけれど、結局これ一本ではないか?と思ったり。エンターテイメントに振り切った「妖猫伝」は面白いよ。

映画館で観てきた

TOHOシネマズのリバイバルで見てきた。
ちょうど、福岡に行ければいいけど、という事案があったもので無理矢理ねじ込んでみてきた。

そうした甲斐があった。

恐ろしい作品であった。おそらく、見るたびに新たな発見があるのだろう。

学生時代に政治史の授業中に「監視社会の例をよく表している一作。見るべし」と言われて気にかかっていた作品だったので、前回見たときは「中国近代史」とか「監視社会」などに焦点が行っていた。大きく掴んだわけだ。社会制度の変化のときの理不尽(蝶衣の裁判、袁世卿の最期)、文化大革命の理不尽(「演劇界の怪物」、「自省せよ!」、劇場主による小樓の共産党批判に受け取れる発言の密告)、密告社会における人間関係の崩壊(菊仙の最期)などだ。

蝶衣という人

蝶衣は虐待を受けて、生き延びるために自分が男か女かわからなくなった、と思った。「16で尼寺へ」のシーンで「私は女。男ではない。袈裟など・・・」のセリフを「私は男。女ではない」と幼い小豆子(のちの蝶衣)はやってしまう。あそこが今回は理解できなかった。

ラストシーン直前に蝶衣は小樓に「私は男。女ではない」とやって「また間違えた❤︎」とやった。あのシーンは昔を懐かしむだけで意味はない。しかも始めたのは小樓だったし。問題は少年時代である。

「男であるのに女を演じる女形の不自然さ」を強調するシーンのようにも感じたのだが、今回は蝶衣のセクシュアリティーを語るシーンではないかと感じた。袁世卿は蝶衣に観音菩薩を見せ「両性具有の、」と蝶衣を口説く。蝶衣が愛した人は唯一小樓ただ一人である。そこに疑問の余地はない。ただ、蝶衣はゲイであったのかとなると疑問が湧く。

蝶衣の世界にそもそも性があったのだろうか。「ジェンダーに関係なく」ではなく、「性」がない世界ではないのだろうか。

蝶衣という人は、性を嫌うのではないか。それは宦官の張翁に虐待されたところから始まったのか。「私は女。男ではない」のセリフを無理矢理言わされるところから始まったのか。この人はとにかく性を嫌っているのではないか、と強く感じたのは裁判シーンである。

蝶衣の裁判

裁判シーンは頭のゆるい人が誤読をするらしい。親日的だ、とか。そういう話ではない。

蝶衣は小樓が日本軍に逮捕され、助けるために青木の招待を受けて歌を歌った。それが中華民国時代に問題視される。小樓も袁世卿も「蝶衣は銃口をつきつけられ、仕方なく応じた」と証言する。それに対して、蝶衣は「青木は私に指一本触れなかった。もしも青木が生きていれば日本に京劇を持ち帰ったはずだ」と述べる。袁世卿の事前の手回しのおかげで蝶衣は仮釈放される。

前回は蝶衣は青木が京劇を理解する文化人であった、と感じたと思った。今回は少し違う。
このシーンで蝶衣は明らかに怒っている。

蝶衣は日本軍の前で「卑猥な歌を歌い踊った」と糾弾されたが、その後に何があると彼らは考えたのだろうか。
今回の裁判の後、かつて日本軍の前で舞ったように、蝶衣は裁判官たちの前で舞う。その後に何があったのか。

遡ろう。張翁の屋敷で劇場主は師匠に「虞姫はいずれこうなる運命なのだ。わかっているだろう」と言う。また、袁世卿自身が蝶衣に何を求めたのか。袁世卿は端から蝶衣に性的な目を向け、蝶衣はそれに応じることになる。

おそらく、裁判ののち、蝶衣はその中の誰かと寝ざるを得ない。蝶衣は袁世卿の手回しの結果、何を求められるのかを理解した上で「指一本触れなかった」と言う。だから、袁世卿は怒って途中で退出する。

青木に招待されるときに、蝶衣はおそらく青木か誰かと寝なければならないと考えただろう。実際には文字通り「彼は私に指一本触れなかった」のだ。蝶衣にとって、青木とは純粋に芸術を理解する人であり、蝶衣その人を人間として扱った人だった。

蝶衣を人間として扱った人は誰なのか。母は劇団に小豆子を捨てた。師匠は才能のある小豆子を愛さないわけではなかったけれど、師匠にとっては小豆子は商品。かばってくれたのは石頭。しかし大人になってからは?蝶衣は小楼を愛したけれど、彼は蝶衣を人間扱いしたのか。袁世卿?まさか。彼からすれば蝶衣は慰み者でしかない。

青木だけだ。青木は蝶衣を芸術を理解する人間として扱った。だから蝶衣は死んだ青木のために言わねばならなかったのだ。日本軍はにくかろう。それでも、青木という個人を蝶衣は尊重した。

袁世卿とのシーン

蝶衣は張翁のところで見た刀を結婚する小樓のためにもらうために袁世卿の相手をするのだが、蝶衣にとってそれが不快であったというのは、人力車の中の蝶衣が口紅をにじませて、気分が悪そうな顔をしているところに表現されている。袁世卿とのシーンはつねに酒がある。酒なしでは蝶衣は袁世卿の相手ができない。

そして、その後にあへんに溺れていく。

性的な存在であった蝶衣は、だからこそ性を嫌う。
小樓は蝶衣の庇護者であったが、蝶衣に性を求めない。だから蝶衣はプラトニックに一途に小樓を愛したのだと感じた。

菊仙

蝶衣は菊仙を嫌う。

菊仙という人は売れっ子の芸妓であった。それを売りにして小樓の愛を勝ち取っていく。
蝶衣も菊仙も性を売る人間である。しかし、蝶衣が自分から誰かに積極的に売りに行かないのに対して菊仙は自ら小樓のところに押しかける。その図々しさ、たくましさが蝶衣にはない。そこが蝶衣が菊仙を嫌う理由だ。

小樓

蝶衣が一方的に愛するのが小樓。

成長すると少年時代の「兄貴分」の鷹揚さがなくなっていく。
前回は「本性は品がないけれど演じさせればピカ一という俳優が小樓なのだろう」と思った。

今回見ると、少し違う。
蝶衣の想いに応えるどころか、気づきもしないのか。気づいていないわけはない。「僕のそばにいて。一生一緒にいるって約束して」と蝶衣は懇願する。それに「それは舞台だろう?私生活は別だ」と返す。別のシーンでも「舞台を降りても側女をやるのか?」と蝶衣に言うではないか。気づいてはいる。でも、蝶衣は小樓の性的対象ではない。嫌悪感はないのだが、拒絶もしない。拒絶をしない、友情を与える、というのがこの人の優しさだったのだろうか。

それでもやっぱり下品な人で、蝶衣の愛に値しない人だからこそ蝶衣の悲劇が際立つ。

小四

張翁のところから戻った小豆子は冬の夜に泣く赤ん坊を拾う。師匠の死後に帰れと言われても「捨て子だから帰るところがない」という少年、小四を蝶衣たちはひきとることになる。共産主義にかぶれ、蝶衣の指導を拒絶し、挙句に蝶衣の十八番の虞姫を蝶衣から奪い、そして蝶衣と小樓を指弾する先鋒になる。

そんな小四だが、虞姫の衣装をつけ、かつて袁世卿が蝶衣に贈った蝶を型どった宝石箱の中のアクセサリーを見て喜んでいた。そして人民服に囲まれるのだが。

前回見たときには共産主義の熱気にやられた人、古さを嫌った人、と感じた。今回は結局、この人は蝶衣を愛していたのではないかと思った。可愛さ余って憎さが、というやつ。

レスリー・チャン

オープニングの体育館で始めて蝶衣が口を開くところで気づいた。喋る前にかすかにぷちっという音がする。あー、吹き替えだ。レスリーの声ではない。レスリーの声は京劇の歌や昆曲のシーンだけでなく、ほぼ全て吹き替えられている。レスリー本人の声は高音でももう少しハスキーだ。そして鼻が悪いんだろうな、という声でもある。だが、この吹き替えた人の声はレスリーの高音に近く、たまにハスキーになるが、鼻が通っている人の声だ。そしてレスリーの熱演にきちんと息吹を吹き込んでいる。非常に良い声優だった。口の動きを見ると、レスリーは北京語で喋っているのだが、おそらく発音が悪かったのではないか。京劇の立ち回りや仕草を学ぶのに精一杯で、ちゃんとした発音矯正まではできなかったのだろう。

しかし、袁世卿の屋敷で酔っ払って袁世卿と二人で舞うシーンの歌は裏声で歌っているわけではない。あれ?レスリー本人かな?と思った。他にもレスリーの声なのか、声優の声なのかよくわからなくなるシーンが幾つかあった。あへんの禁断症状が現れたときのシーンの息遣いはレスリー本人ではないかと。

あへんシーン

ルージュ」でレスリーはあへんでいい気分♪をやっていたが、ぐったりとしたレスリーがアニタ・ムイに服を着せてもらうシーンが美しい。

本作のあへんシーンはついたてごしに映る。今回は髪が乱れて「楽園の瑕」の欧陽鋒のみだれ髪を連想させた。そういえば、この二作の撮影時期は近い。レスリー作品の中ではオス度がかなり高い「楽園の瑕」と、むしろメス度が高い本作とが近いのが意外であった。それだけ幅の広い俳優だった。

色気

いや、本作は本当にメス度が高いのだろうか。
女形なので仕草がいちいち女っぽい。手がうつるときれいだけれど、やっぱり男の手だった。誇張された女らしさが女形の色気だとすると、合格ではある。性的な存在として扱われた蝶衣は、やはりセクシーなのだろう。しかし、90年代後半の本人ですらもうどうしようもなかったのではないかと思われるほどのだだ漏れの色気と比べると異質だ。セクシーとか、妖艶というのではなく、清楚でかわいらしかった。

90年代後半のレスリーの色気は両性具有的だと思う。ちょうど、袁世卿が「観音菩薩は両性具有で」と蝶衣を口説いたように。しかし、本作においては蝶衣はむしろ中性的だと感じていた。例えば90年代後半の武田真治や及川光博のもっていた色気に近い。本来女形に求められるべきは妖艶さだろう。しかし、とても清楚だった。

舞台の上で覇王と一緒にくるっと回って向かい合わせになるところなんかむしろかわいい。まだ京劇にとって良かった時代、舞台の上で喝采を浴びる蝶衣の、濃いメイクの奥の少しはにかんだような表情も良かった。レスリーのコンサートDVDで見る喝采を浴びて嬉しそうな「スター・レスリー・チャン」とは大違いだ。やはり、レスリー・チャンという俳優は自己から引き算をしていく俳優だ。

デジタル・リマスターではない美しさ

DVD上映だったのだが、デジタル・リマスターをかければさぞや美しいだろうに、もったいないと思いながら見た。
ただ、リマスターをかけないからこその、劣化したような、ぼやけたところが激動の時代を漂った蝶衣にふさわしい。

大画面で見て本当によかった。フィルムの状態が良い時代に、フィルム上映で観られればなお良かった。しかし、93年香港公開で日本でも評判が良かった本作は95年にはもう上映は終わっているだろう。私、小学生とか中学生だし、95年なら日本にいない。そもそも中学生に理解できるだろうか、これが?仕方がないのだ。港女の言うように、「レスリーは別の世代の人」。今、レスリーを大画面で見られて良かったと思おう。

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コメント

  1. […] 京劇のシーンはメイクしてもレスリーは一人美しい。原作者は「覇王別姫」と同じ人らしい。本作がなければ、「覇王別姫」はなかったのだろう。 […]

  2. […] レスリー作品で言えば「覇王別姫」は明確に文革批判であり、本作は明らかな共産党礼賛である。かつて紅衛兵に捕まえられ「演劇界の怪物」と首から紙を下げさせられたレスリーが、今回は人民服で踊る。 […]

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