1960年、南米プエルトリコのサンフアンに、ジャーナリストのポール・ケンプが降りたった。ニューヨークの喧騒に疲れ果て、地元新聞「サンフアン・スター」紙に記事を書くため、カリブ海に浮かぶ島プエルトリコへとやってきたのだ。ラム酒を浴びるように飲むという島の生活にすぐに馴染んだケンプは、ある日アメリカ人企業家のひとりであるサンダーソンと出会う。
The Rum Diary 2011年
感想
監督はブルース・ロビンソン。
ジョニー・デップとアンバー・ハードが真っ赤なシボレーに乗って鞘当てをして、そのまま桟橋につっこんであわやというところで急ブレーキをかけて、鞘当てごっこを終わらせてしまう、というシーンがこの映画を象徴しているように思う。つまり、中途半端。
バーでエロモードに入ってしまったシュノーをサンダーソンが連れ戻そうとするがケンプごと叩き出されるシーンがある。ケンプはシュノーがどんなめにあわされるか分かっていたのに助け出すこともできない。ケンプという人は要するにどんづまりなのだ。
どんづまりの男の、自堕落なプエルトリコでの生活を描くなら、もっと自堕落に描くべきだろう。桟橋から海に突っ込んでみようじゃないか。自堕落だから、どん詰まりだからこそ、微かに残ったジャーナリストとしての正義感、使命感が生きてくると思うのだが。
社主のカツラ、ケンプの予言(ニクソンはケネディに負ける)や、星占いの話など小ネタとしてクスッと笑ってくれ、というところなのだろうが、笑うこともできない。
舌がのびて見えるシーン(妄想。ラリっている)は必要だっただろうか。ここで「ブロウ」を思い出した。あれも失敗作だった。あれを入れるならば、もっともっと入れて、ケンプの状態があまり良くないことを描くべきだった。状態がよくないからこそ、ラストがバッドエンドだろうがグッドエンドだろうが、生きてくるのだ。
実際に自堕落な生活を送っているのではないかと思わせるジョニー・デップだが、どうみてもおじさんかおじいさんだ。ポスターのジョニー・デップは修正し過ぎている。もっと若い俳優か、若く見える俳優を使って、ジョニー・デップは裏に回るべきだった。アンバー・ハードとのシーンは年の近い叔父と姪、早く子供を作ってしまい、母親とは別れた父親が母親の元にいる娘と車に乗っているようにしか見えない。おそらく、セクシーなシーンにしたかったのだろうに。
「文体がない。僕らしく書けない。」
そうケンプはシュノーに言うのだが、この映画もそうだった。
いや、ジョニー・デップは製作側にも回るべきではなかった。むしろ、おなじ題材でもジョージ・クルーニーが製作した方が良かったのではないかと思う。前半は徹底的に自堕落に、後半は調子のわるい中でも必死にもがく社会派に作ったのではないだろうか。
ファム・ファタールのシュノー役のアンバー・ハードも綺麗な人なのだが、記憶に残らないタイプの美女だ。カリスマ性のようなものが感じられず、ただの「誰とでも寝る」女にしか見えない。
唯一はアーロン・エッカートだ。
出てきた瞬間に、ああ、うさんくさい、と思うのだ。でも、これは「ダークナイト」のおかげだ。