幼い頃、むちゃくちゃな人生を送る父に捨てられ、生き別れた兄弟がいた。二人は、お互いの顔も名前も知らずに成長する。兄・祐太は、その人柄と秘伝のソースをかけたハムカツを名物に、行列のできる超人気店「デリカの山ちゃん」の店主として東京下町・善人通り商店街の顔に。弟・祐介は、「金城ブラザーズ」という超売れっ子芸人になっていた。そんなある日、10数年前に善人商店街を出て行ったきり全くの音信不通だった「山ちゃん」初代店主夫婦の一人娘・徹子が突然帰ってくる…。
2009年
感想
監督は水田伸生。
水田伸生・宮藤官九郎・阿部サダヲのトリオの二作目。
クドカンの悪い癖は、「良い話」に落ち着かせてしまうところだ。毒が魅力なのに。映画にするとラストの印象が強くなってしまい、面白くなくなることが少なくない。ドラマの方がうまく見えるのがこれまでの難点だった。
本作はなかなか長い。なんとなく、ドラマのダイジェスト版を見ているような気分にもなる。それは阿部サダヲだからだろうか。
阿部サダヲという、舞台出身の俳優の特有の絵写りの悪さ、滑舌が良すぎ、かつオーバーアクションさが作り物感をより強める。舞台俳優とテレビドラマの相性はいい。それは私がドラマ=チープと思っているからかもしれない。
映画に私が求めるのはリアリティだ。SFでも、荒唐無稽な物語でも良い。設定が現実離れしていればしているほど、ナチュラルな演技が物語に命を吹き込み、リアリティを与えるのだ。そのせいか、私は映画には舞台俳優は合わないと思う。舞台俳優には遠くにいる観客にも見えるような、躍動感と滑舌の良さが求められる。だから、彼らは表情が極めて豊かだし、滑舌は非常もとても良い。しかし、映画ではそれが逆にやりすぎだと思ってしまう。映画で使うならば、脇役だ。主役に持ってくるべきではない。
本作はその「阿部サダヲ」という「舞台俳優」が非常に上手く使われていた。
山ちゃんは妙にテンションが高く、腰が低い。そして表情には「笑顔が張りついている」。瑛太でなくったって思うだろう。「こいつの笑顔ひっぱがしてやりてー」って。その笑顔が張りついているのは「捨てられないか」という恐れと、「捨てられていない現在」への感謝のせいだ。舞台俳優を使わずに誰を使う?という役なのだ。
瑛太も竹内結子も演技が非常にナチュラル。塚本高史は表情が乏しいところまでもリアルだ。「俺は良いよ」と言いながら、全然良くなくて、「・・・捨てないでくれよ」と懇願するところが抜群。
宮藤官九郎は「良い話」「泣ける話」「笑って泣ける話」に強迫観念があるのではないかと思うことがある。そのせいで、毒が薄められてしまう。だから「毒を薄めなければならない」という強迫観念があるのではないだろうか。長い作品なのだが、ストーリー展開は二転三転して飽きさせない。静かな物語だが二転三転するのだ。上手い。
しかし、私は宮藤官九郎の毒全開の作品を見たい。