ミュージック・オブ・ハート

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一人の女性が音楽を通じて人々の心を動かしていく様子を描く、心温まるストーリー。メリル・ストリープ演じるロベルタ・ガスパーリは、都心近郊の荒れた生徒たちにバイオリンを教える。生徒たちは初めは相手にしていなかったが、徐々に彼女の人気は高まり、数々の成功を収めるが、10年の後、ロベルタと子どもたちの前に大きな試練が立ちはだかる。人気授業となっていた彼女のクラスが予算削減のため打ち切られてしまうのだ。

Music of the heart 1995年

感想

監督はウェス・クレイヴン。

メリル・ストリープは功労者だ。良い映画にたくさん出演している。映画好きえお自認する人間にとっては非常に重宝するのだ。例えば、あまりよく知らない相手に映画が好きだと言って、いい映画がない?と聞かれた場合、差し当たり適当にメリル・ストリープ印の映画を勧めておけば当たり障りがない。いいチョイスと思ってもらえるだろう。間違っても「

メリル・ストリープは功労者だ。良い映画にたくさん出演している。映画好きえお自認する人間にとっては非常に重宝するのだ。例えば、あまりよく知らない相手に映画が好きだと言って、いい映画がない?と聞かれた場合、差し当たり適当にメリル・ストリープ印の映画を勧めておけば当たり障りがない。いいチョイスと思ってもらえるだろう。間違っても「ドリーム・ホーム」をお勧めして、独創的な殺し方について語ってはいけない。どこが良いのか、と聞かれれば、「荒れたハーレムの子供たちがヴァイオリン教育を通じて落ち着いていくこと、メリル・ストリープが演じた人のヴァイオリン教育への熱意と困難に立ち向かう様子」といえば良い。もしも自分が楽器をやっていたなら、就職面接でそれを絡めてアピールしても良いだろう。たいていの面接担当は感心してくれるだろう。

だが、私はメリル・ストリープが嫌いだ。何を演じても、何に化けても、発音を変えても、吹き替えで見ても、「メリル・ストリープ」臭がする。「私の演技を褒めて」「私にもう一つオスカーを頂戴」「オスカーにノミネートされて当然なのよ」「私の出る映画は名作よ」という気を発しながら、「でも、そんなことは表立っては言わないわ」と微笑みながらにじり寄ってくる感じがするのだ。

「演技」とは何か。「その役になりきること」と多くの人たちは言うだろう。そういう演技者は山のようにいる。オープニングでクレジットされることのほとんど考えられないような小さな役しかもらえない、ひょっとしたらエンドクレジットにも出してもらえないような役しかもらえないような、無名の役者たち。名前を覚えてもらえないような役者たち。エキストラでしかないかもしれない人たち。「出演させてもらえるだけでありがたいと思え」と、無給かもしれないような人たち。この映画でいえば、子供たちだ。セリフがあっても、実に自然にしゃべっている。この子達の演技の上手さは演出の上手さもあるのだろうけれど、日本の棒読みか不必要に抑揚をつけたセリフ回しの子役たちと比べれば、どれだけうまいかがわかる。けれど、ほとんど区別がつかない。自分ではない別の誰かになりきるためには自分の気配を完全に消してしまうことが必要だ。こういった人こそ、演技力があるというべきなのだ。メリル・ストリープは、メリル・ストリープ臭さゆえに落第するのだ。

けれど、名優になるためにはそんな「演技」が求められるのではない。名前を覚えてもらえるような役者というのは、個性的だ。メリル・ストリープ臭は個性だ。自分の気配を完全に消してしまう演技者たちは、そういう意味で没個性的なのだ。そして、チョイスだ。良い映画に出続ければ好循環が続くのだ。メリル・ストリープをみればわかる。

舞台のニューヨークだが、映画中では言うほど貧困は感じなかった。

」をお勧めして、独創的な殺し方について語ってはいけない。どこが良いのか、と聞かれれば、「荒れたハーレムの子供たちがヴァイオリン教育を通じて落ち着いていくこと、メリル・ストリープが演じた人のヴァイオリン教育への熱意と困難に立ち向かう様子」といえば良い。もしも自分が楽器をやっていたなら、就職面接でそれを絡めてアピールしても良いだろう。たいていの面接担当は感心してくれるだろう。

だが、私はメリル・ストリープが嫌いだ。何を演じても、何に化けても、発音を変えても、吹き替えで見ても、「メリル・ストリープ」臭がする。「私の演技を褒めて」「私にもう一つオスカーを頂戴」「オスカーにノミネートされて当然なのよ」「私の出る映画は名作よ」という気を発しながら、「でも、そんなことは表立っては言わないわ」と微笑みながらにじり寄ってくる感じがするのだ。

「演技」とは何か。「その役になりきること」と多くの人たちは言うだろう。そういう演技者は山のようにいる。オープニングでクレジットされることのほとんど考えられないような小さな役しかもらえない、ひょっとしたらエンドクレジットにも出してもらえないような役しかもらえないような、無名の役者たち。名前を覚えてもらえないような役者たち。エキストラでしかないかもしれない人たち。「出演させてもらえるだけでありがたいと思え」と、無給かもしれないような人たち。この映画でいえば、子供たちだ。セリフがあっても、実に自然にしゃべっている。この子達の演技の上手さは演出の上手さもあるのだろうけれど、日本の棒読みか不必要に抑揚をつけたセリフ回しの子役たちと比べれば、どれだけうまいかがわかる。けれど、ほとんど区別がつかない。自分ではない別の誰かになりきるためには自分の気配を完全に消してしまうことが必要だ。こういった人こそ、演技力があるというべきなのだ。メリル・ストリープは、メリル・ストリープ臭さゆえに落第するのだ。

けれど、名優になるためにはそんな「演技」が求められるのではない。名前を覚えてもらえるような役者というのは、個性的だ。メリル・ストリープ臭は個性だ。自分の気配を完全に消してしまう演技者たちは、そういう意味で没個性的なのだ。そして、チョイスだ。良い映画に出続ければ好循環が続くのだ。メリル・ストリープをみればわかる。

舞台のニューヨークだが、映画中では言うほど貧困は感じなかった。

ミュージック・オブ・ハート (字幕版)

ミュージック・オブ・ハート (字幕版)

メリル・ストリープ, アンジェラ・バセット, グロリア・エステファン, エイダン・クイン
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