あやうく書きかけた。「小林聡美となかまたち」みたいな。小林聡美とスローライフものというか。マイペースな人たちのお話。「めがね」と「マザーウォーター」の間に「プール」があるのだが、「マザーウォーター」でもういいやって感じになってパスしてる。
00年代後半の小林聡美みたいな女優さんは、あまり思い浮かばないなあ。
すいか
性格も境遇も違う5人の女性たちが、ある下宿での生活を通して自分を見つめ直し、それぞれが少しずつ成長していく姿をユーモラスに描く。
2003年
脚本は木皿泉と山田あかね。
このドラマが原点の一つと言っていいのではないだろうか。学生時代に見て、ほえーっと思った作品。
どん詰まりの基子、横領犯の馬場ちゃん、お嬢さまなのにおかねがない絆。よくわからない大学教授(2021年的には、非常勤講師かな)、おまけに大家は大学生。なぜか、「ハピネス三茶」というところに住み着いて、と言う話。
「少しずつ成長していく」などという、話でもないんだけどね。馬場ちゃんがアクセントどころではない不気味さがあるし。刑事は片桐はいりとくると、不穏。小泉今日子という女優の本領は、踊る大捜査線The Movieであったり。穏当でも「マンハッタンラブストーリー」であったり。いるだけで不穏にさせることができるところだったなあと思う。
爽やかさ、爽快さならば、むしろ小林聡美・ともさかりえコンビで同じ日テレの「神はサイコロを振らない」の方が強い。
神はサイコロを振らない
10年前に消息を断った飛行機が突然現れた。10年前と変わらない姿の恋人や同僚。10年という長い月日、そこに生まれる複雑な思い…。
2006年
感想
実は、小林聡美とともさかりえというと、こっちの方が印象深かった。こっちは市川実和子。お姉さんの方。
「すいか」から小林聡美とともさかりえつながりで書くけれど、特に小林聡美のスローライフものでもない。
10年前に失踪し、ケリをつけたと思いつつもやさぐれていた人の前に、10年前そのままの人が現れ、そして消える。ホラー設定で、爽やかに10年前のことを終わらせて去っていくのではなく。10年後の人はむしろ蒸し返さないでほしいと思っている現実感。
最後の「残骸が出てこないなら、パラレルワールドに」というのが、希望で爽やかではないわけではない。
本作の放映は2006年の1-3月期なんですよ。そしてヤスコさんが、フィンランドに飛んじゃうのかしら。というわけで「かもめ食堂」。
かもめ食堂
夏のある日、ヘルシンキの街角に「かもめ食堂」という小さな食堂がオープンしました。その店の主は日本人の女性サチエ(小林聡美)でした。道行く人がふらりと入ってきて、思い思いに自由な楽しい時間を過ごしてくれる、そんな風になればいい、そう思ったサチエは献立もシンプルで美味しいものをと考え、メインメニューはおにぎりになりまして。しかし、興味本位に覗く人はいましたが、来る日も来る日も誰も来ない日が続きます。それでもサチエは毎日、食器をピカピカに磨き、夕方になるとプールで泳ぎ、家に帰って食事を作る、そして翌朝になると市場に寄って買い物をし、毎日きちんとお店を開く、ゆったりとしてヘルシンキの街と人々に、足並みを合わせるような、そんな時間を暮していました。サチエは、毎日真面目にやっていれば、いつかお客さんはやってくる、とそう思っていたのです。
2006年
感想
監督は荻上直子。原作は群ようこ。
公開が2006年3月。なので、思うでしょう。このサチエさん、もともと「サイコロ」でグランドホステスだったヤスコさんでしょ?みたいな。
おそらく日本におけるフィンランド人気を決定づけたのが本作。
そのブーム前にフィンランドで学んだが、フィンランド語は、キートシュ・モイみたいなレベルで、全部英語で押し切った。交通案内なども全てスウェーデン語と併記してるから、スウェーデン語から英語に推測して解決。なお、卒業はしていないぞ。
ということで、このころのヘルシンキの風景に見覚えがあるんですよ。
00年代前半のヘルシンキ、私にとっても結構懐が深かった。本作ではスーツケースがきのこ詰めになるのがとても好きなのだ。
当時のフィンランドはごく短期間しか大学にいなかった私には学生ビザを要求しなかった。しかし、働き始めると、労働ビザが必要になる。今見ると、本当にヒヤヒヤしてならない。それが年齢を重ねたということかもしれないが、当時も心配だったよな…。海外旅行まで含めて、特に海外留学・海外就労の場合には、その国の大使館のHPを見て確認しようね
めがね
春まだ浅いころ。この世界のどこかにある南の海辺の小さな町に不思議な予感が漂う。「来た」プロペラ機のタラップを降り、小さなバッグひとつを手に浜を歩いてくる、めがねをかけたひとりの女。待ち受けていた男と女に向かい、彼女は深々と一礼する。静かな波が寄せては返す。時を同じくして、同じプロペラ機からもうひとりの女が降り立った。名前はタエコ(小林聡美)。大きなトランクを引きずりつつ、手描きの地図を片手に浜を歩き、奇妙ななつかしさの小さな宿・ハマダにたどり着く。出迎えたのは宿の主人ユージ(光石研)と愛犬コージ(ケン)。迷わずにたどり着いたタエコに彼は「才能ありますよ」と告げる。「ここにいる才能」。次の日宿の一室で朝を迎えたタエコの足元に不敵な微笑みをたたえためがねの女サクラ(もたいまさこ)の姿があった。それから起こるのはいちいち不思議なことばかりだった。
2007年
感想
監督は荻上直子。
タイトルは全員めがねをかけているというだけ。
話はあるんだけど、ないんだけど。変な人が集い、たえこさんは調子が狂いっぱなし。けれど、そのうち「たそがれる」ことに慣れてきて、浜でメルシー体操なる変な体操もできるようになる。
もっとシンプルに書いてしまえば、「たそがれられなかったけれど、たそがれる才能のあった人が、たそがれる」になってしまうのだから。
見る側もぼーっと見る、というのが正しいと思う。が、いくつか書きたい。いつもの通り、ネタバレがあるので気になる方は読まないでいただきたい。
ロケ地は鹿児島県の与論島らしいが、与論島であることを明確に示す言葉は映画中には一つもない。どれだけって、空港のシーンで「与論空港」の文字が「空港」の部分しか写さず、実に不自然なくらいだ。けれど、ファンタジックな世界であるため、作中に場所を明確に示す言葉を意識的に排除しつくす必要があるため、これは成功。
たえこさんを演じるのは小林聡美。「きびきび」、「勤勉」といった言葉が似合う女優である。それが春の観光シーズンでもない島へやってくると、たそがれられなくて調子が狂うのは仕方がないと思う。きっと、リゾートに行っても「することがなくて楽しくなかった」と言ってしまいそうだ。なかなかたそがれられない演技が実に自然なのだ。
加瀬亮の演じる、よもぎくんはたえこさんを追いかけて都会からやってくる。たえこさんとよもぎくんの関係はどんな関係だろう。「先生」と呼びかける。ラスト近くでよもぎくんが詩を暗唱するけれど、ドイツ語っぽかった。たえこさんは大学のドイツ文学の講師クラスで、よもぎくんは博士課程の大学院生、くらいだろうか。よもぎくんとたえこさんの関係は何も語られず、それがいいのだ。
はるなさんは高校の生物の先生だということがわかっている。なのに、市川実日子がちょっとキンキンした関東人っぽい喋り方なのがリアリティがないし、実際の高校の先生、とくに若手ってものすごく忙殺されているんだよなあ。と高校の先生をしている友人の姿を見て思った。離島だからいいのか?よもぎくんが加瀬亮。はるなさんが市川実日子。この二人は一般人にまぎれると目立つだろうけれど、「素朴なカップル」をさせれば完璧に似合う。かなり前だけど携帯のCMでカップル役やってたイメージが強すぎるのだろうか。そのゴールデンカップルをあえてくっつけさせないのがよかった。
もたいまさこはいつもの調子だ。たえこさんの部屋に入りこんで「朝ですよ」と起こすのだが、怖いねえ。かき氷のお代もとらず、何かしてもらったりプレゼントをもらう人だ。貨幣価値が全くない。夏が来るとどこかへ去ってしまうのだが。生きているのだろうか。死者か何かだろうと思った。春になったらたそがれに来るのだ。怖くはない幽霊だ。
ところで、たえこさんがハマダを飛び出して帰ってくるときのこと。さくらさんの三輪車に乗って帰ってくるのだが、スーツケースは道ばたに放置するのだ。それなのに、たえこさんの衣装は変わるし、なんかめがねも黒から赤に変わっていなかったかと思う。はるなさんが拾ってくれたのだろうか。
与論島にたそがれに行きたくなってくるが、これ、一種のカルト集団になりかけてるんですよね。みんな帰っていくから、カルト集団にはならない。帰っていく理由はこのままいくとカルト集団になりそうだという予感があったからだろうか。
ここまで語ってぶちこわすが、そんなことどうでもいいのだ。やっぱり、ぼーっと見るのが正しいだろう。
マザーウォーター
街の中を流れる大きな川、そしてそこにつながるいくつもの小さな川や湧き水。そんな確かな水系を持つ、日本の古都、京都。そんな京都の街に、風にそよぐように暮らし始めた、三人の女たち。ウイスキーしか置いていないバーを営むセツコ。疎水沿いにコーヒーやを開くタカコ。そして、水の中から湧き出たような豆腐を作るハツミ。芯で水を感じる三人の女たちに反応するように、そこに住む人たちのなかにも新しい水が流れ始めます。家具工房で働くヤマノハ、銭湯の主人オトメ、銭湯を手伝うジン、そして“散歩する人”マコト。そんな彼らの真ん中にはいつも機嫌のいい子ども、ポプラがいます。ドコにいて、ダレといて、ナニをするのか、そして私たちは、ドコに行くのか・・・今一番だいじなことはナンなのか。そんな人の思いが静かに強く、今、京都の川から流れ始めます。
2010年
感想
監督は松本佳奈。
加瀬亮はSPEC撮影終了後だったのだろうか、短髪である。けれど、筋肉はまるでないように見えるし、姿勢だっていつもの悪い姿勢に戻っている。すごい変貌ぶりだよなあと思う。それが俳優さん。
とくに何をするでもない、人々の日常。ただ、人の出入りはある。舞台は京都。観光都市になってしまったが、職人都市ですよね、あそこ。
ところが本作では、年季の入った豆腐屋と銭湯は別として、カフェもバーもがらんどうだ。カフェはオープンしたて、という設定のようだから、仕方が無いにしても、がらんどうのバー。ウィスキーしか置いていない、という話なのだが、どうにも味気ない。
豆腐だ。ベジタリアン。
私の知っているとあるベジタリアンの人は肌につやがなく、潤いのなさそうなぎすぎすした雰囲気を醸し出しているのを思い出した。もう一人、ローカーボダイエットをしている人もそうだった。ただの偏食というわけでなく、主義主張を持ってそういう食生活をする人はどこか無理をしているのだろうか。
偏食家はハッピーな存在なのである。好きものしか食べないから、栄養は偏るだろうが、そこに無理はない。
本作も「シンプルでミニマムな生活」と言いたいのだろうけれど、肝心要の生活感がまるでない。もたいまさこはしょっちゅう料理しているし、誰かが「食べて」はいるのだけど、そこには生活がない。大人が生きるということは、ぼんやりと生きているのではない。悪い意味で、ファンタジックであった。
先日とあるカフェに行ったとき、そこの女主人と話していたことを思い出した。一度うんと遠く、日本を飛び出してから帰ってきてカフェを開いたという人だ。「結局、どこに行っても、生活なのよ。ここから遠くに行けば、何かおきるに違いないって思って出て行ったのに、そこにあったのは生活だった。毎日起きて、ご飯を食べる。そうして仕事をして、掃除をして、っていう生活。どこにいたって同じ。だから帰ってきた」んだそうだ。本作に欠けているのはそこ。「かもめ食堂」にあって、本作にないのはそこ。すなわち、生活である。