1959年、アメリカの名門全寮制高校。生徒たちは、伝統と規律や親の期待に縛られながら、冷めためた気持ちで日々をやり過ごしている。そこに同校OBの教師キーティング(ロビン・ウィリアムス)が赴任してくる。マジメ腐った詩の教科書を破り捨てさせ、机に上に立ち、生きる視点を変えることを教えるキーティング。彼の授業を通して、生徒たちは自らを自由に語り合うようになり、自分の道を歩みだす。だが、彼らの前に厳しい現実の壁が立ちはだかる…。
Dead Poets Society 1989年
感想
監督はピーター・ウィアー。
わー。トッドってイーサン・ホークじゃん。かっわいい。眉毛が下がり眉になってないし。
少年の暴走。
年をとるというということは、視座が少し上がるのかもしれない。いや、老害になってしまえばそれもおしまい。
若い頃は「キーティング先生気の毒」だったのだが、今見ると「仕方がないかな」とも思う。
舞台は伝統ある学校らしいが、日本的な基準から言えば、ビミョーな自称進学校というやつにしか見えない。県内一の進学校というものはもっと自由だ。校則は緩めで私生活などにはほぼ干渉しない学校に合う子と合わない子がいる。大学進学が目的ならば、ほったらかしにしなければ名門大学に入れない子と、鍛えに鍛え上げてようやく名門大学に入れる子がいる。ニールは名門大学に入らなければならない子で、鍛えに鍛えあげなければ入らない子だ。そういう家庭環境の子たちに向かって感情の豊かさを説いてもしょうがないではないか。
そもそも親に説かねば。
ニールは親に反抗できない。この学校はそういうレベルの子の集団だ。確かに感性を磨くことは素晴らしい。ニールは鍛えあげられてハーバードに入ったとする。医者になったとする。どうしようもない医者で終わっただろうと思う。それよりはニールは俳優になった方が幸せだろう。しかし、ニールの幸せを決めつける視野の狭い親と、そういう親の元で育ったそれほど能力の高くないニール。それでは悲劇は避けられない。
キーティングの時代、この学校はもう少しレベルが高かったのだろう。でも、戻って、見ればわかるではないか。自分が相手にしなければならない子たちのレベルを。
そして少年というものは暴走するものだ。知能のあまり高くない少年たちのリミッターを、キーティングは外してしまった。
校長は頭が硬い。しかし、キーティングのせいにしたくなるのもわかってしまった。恐ろしい・・・