中国語通訳のガイア宅に一本の電話がかかってきた。今から緊急で通訳をして欲しいというのだ。
すぐさま迎えに来たイタリア秘密警察のキュルティから目隠しを強要され、国家施設の地下室らしきに案内されたガイア。
しかし、机の向こう、通訳の相手はなんと脚を縛られたイカにそっくりの宇宙人だったのだ!
キュルティは「目的は?何を企んでいる! なぜ中国語なんだ! 」と、宇宙人を激しく攻め立てる。
「私の名前は王[ワン]さんです。世界で一番多く使われている中国語を勉強してきました。たくさんのお友達を作りたいです。」と冷静に語る。
執拗な取調べにも寂しげな顔をしつつ真摯に対応する王さんに同情するガイア。しかし、秘密警察は中国語で優等生発言を連発する王さんに陰謀を感じ、拷問を始める…。
一方、ガイアは王さんの人権を尊重し、アムネスティに連れて行こうと画策…。果たして王さんの真意とは! ?
L’arrivo di Wang 2011年
感想
監督はアントニオ・マネッティとマルコ・マネッティ
原題を英語にすると「The arrival of Wang」なので、日本語タイトルが「未知との遭遇」(Close Encounters of the Third Kind)に引っ掛けようとしているわけではないのではないかと思う。未知との遭遇のイタリア語タイトルは「Incontri ravvicinati del terzo tipo」の模様。
面白いか面白くないか、といわれるとおもしろい。ただ、面白いと思う自分に正直驚いている。
「アイアン・スカイ」のように単純に茶化す方向に行かないだけ、面白いとは言いにくい。
世界的に拷問はどう扱われるのだろうか。
ヨーロッパ的にはなし、だ。ヨーロッパで拷問をしたことがばれたならば、大問題になる。アメリカもなしだ。だからこそ、グアンタナモ収容所はキューバにあるし、グアンタナモ問題はブッシュ政権の足をひっぱることになった。
私個人としても反対である。
体罰同様、有効だとする人がいるのはわかるのだが。ここはいい。
人道法は人間だけを対象にするのか?人間同様の知能を持つ宇宙人は?いや、こういえばよりリアルだろうか。高い知能を持つ生物、たとえば、イルカは?クジラは?そうだ。シー・シェパードだったり、数年前太子町のイルカ漁が残虐だと欧米系の市民団体から抗議運動があったが、彼らの主張はこういう点から出発しているのだ。
どちらかに立って、相手を浅はかだ、とか、どちらともに組しないという立場をとって、どちらも浅はかだ、という態度をとるのかであれば、こちらも返す刀で、すかしてるんじゃねーよ、と言えるのだが、そうではないから厄介だ。
反中オタは本作で溜飲を下げることができたらしいが、ワンさんたち中国語をしゃべる宇宙人の侵略を中国の世界侵略の暗喩と読んだのだろう。つまり、本作は中国による世界侵略への警鐘だと。「お前、馬鹿だな」の台詞の通り、中国を信用する奴は馬鹿だ、と。
華僑はなぜかどこへ行っても団子になっている。助け合うのが楽なのだろう。
現代ヨーロッパにもチャイナタウンはある(「パリ、ジュテーム」も一つパリのチャイナタウンが舞台になっていた)。けれど、必ずしも現地に溶け込むわけではないので、現地で軋轢を生んでいる。また、華僑は馬車馬のように働くから、のんびりと働くワークスタイルの現地の労働者から仕事を奪ってしまう。奪われるほうは誰にでもできるような(実際にはそうではないのだが)、低スキルの単純労働だ。それが、失業率の高さにつながり、失業率が高いからこそ、不安定になっていく。ここに焦点を当てた、と。
本作を単純なアンチチャイニーズと読むのは簡単だ。そうではない。ヨーロッパの移民問題で華僑は大きな問題ではないだろう。華僑は働き者が多いし。
「(ワンさんは)イタリア人にはまるで見えないだろう?観光するのか?宇宙人用のホテルもないのに?」と言っているが、金のある観光客はどこででも金を落し続ける限り、ある程度歓迎される。「イタリア人にはまるで見えないだろう?」アフリカからの移民・難民の方がイタリアでは深刻な問題なのだ。仮に本作を排他的な映画と見るならば、むしろ、そっちだ。
イタリアは地中海を隔ててアフリカ大陸と向き合っている。アフリカからの難民がヨーロッパを目指すとき、地中海に突き出たイタリアは格好の目的地だ。イタリアに到着した難民たちは、到着後すぐに人権を主張し始める。だって、ヨーロッパ人はアフリカに来て人権を説くのだから、ヨーロッパに到着しだい自分たちにその人権が認められ、ヨーロッパ人と同じ高福祉を享受できると思うのだ当然だ。けれど、ヨーロッパの人々にとって、人権はそこにあったものではなくて、獲得したものだ。高い税金を払うのは、共に人権を獲得するために戦ったわけでもない人たちを養うためではなく、自分たちの福祉のためなのに。ここに大きな差があり、払う側のヨーロッパ人に大きな不満が生まれるのだ。また、先行してヨーロッパで努力を重ねてきた移民たちにも怠惰(に見える)後発組へ不満がある。あの人たちと同じに扱われたくない。
ただ、それを正面から扱うにはあまりにもデリケートだ。
出発点はイタリアの排他性と同時に安易に受け入れることの危険性を指摘するところだったのかもしれない。ワンさんが中国語を選択したのは当然のことだ。事実として中国語とそのリージョナルの話者が世界でもっとも多いのだから。それだけだ。その出発点を敏感に感じ取って、国際問題になりかけたのだろう。
ただ、どんでん返し系の映画としてはできはいい。だからこそ、面白くなってしまう。
面白くなってしまっていいのだろうか。
カップコーヒーの自動販売機があるのだが、さすがイタリア。
エスプレッソ用なのだろう、小さな、日本だったら試飲用の紙コップのような大きさのプラスチックカップだった。