ピアノの才能に恵まれ、”神童”ともてはやされながら、自らも才能をもてあましている13歳のうた。ある日、落ちこぼれの音大受験生ワオと出会ったうたは、ふたりで”音”を共有する体験を通して、音楽の真の喜び、人とのつながりのあたたかさに目覚め、やがては音楽そのものである自分自身を受け入れていく。日本初の本格クラシック映画の誕生。
2007年
感想
監督は萩生田宏治。
成海璃子は神童だ。「あたしは音楽そのものだから」うたはそう言った。ならば、成海璃子は演技そのものかもしれない。子役の嫌らしさなどみじんもない。清々しいまでに「媚び」がない。大人の顔をしているくせに、13歳の不満とやるせなさを体現していた。
それに比べると、「いい人」の貫地谷しほりの大根ぶりが際立ってしまっている。一本の映画の中に恋人のワオをうたにとられるのではないか、という不安エピソードを盛り込むことはできない。けれど、「そんなにうたちゃんのことが気になる?」という台詞があるのに、どうして不安を演じないのだろうか。演じさせなかったのだろうか。
19歳のワオと13歳のうたではセクシュアルなものが発生しないわけはないのだ。うたの方にはなくても、演じるのは大人の顔の成海璃子だ。19歳の少年がセクシュアルなものを感じないわけはないだろう。男の寝室に少女が上がり込むのだ。そもそも、オープニングからそうだ。夏の光の中、真っ白なワンピースを着た少女は下着のラインも体のラインも丸見えだった。それが水に濡れるのだ。19歳の少年に耐えられるだろうか。
それを無視してしまうからリアリティがなくなってしまっている。そのくせ、貫地谷しほりの歌に松山ケンイチが伴奏するシーンやラストで松山ケンイチと成海璃子が合奏するシーンがあったのだ。楽器を扱ったことのある人ならわかるだろう。人に見せるためでなく、自分たちだけのために演奏したときにうまく嵌ったときの快感は性的な快感に近しい。他人から聞けばおそらく大したことはないのだが、自分たちだけでは最高なのだ。言わば、「コクーン」の愛のシーンに近い。深い深いところで会話をするのだ。
ラストの「ピアノの墓場」での合奏、「聞こえる?」「聞こえるよ」
愛は父親から別の男へ移って、少女は成長するのだ。
それにしても、少年の扱いのむごいこと。つきそってやったのに、好きな少女は大人の男にかっさらわれるのだ。