1860年代の西部。辺境の前哨基地に赴任したジョン・ダンバー中尉は、近隣のスー族インディアンの存在に戦々恐々としていた。
ところがふとしたきっかけで彼らとの交流が芽生えると、やがて彼らは合衆国の領土拡張政策とアメリカ先住民の対立という、火花散る局地戦に巻き込まれることになる。
Dances With Wolves 1990年
感想
監督はケヴィン・コスナー。
ケヴィン・コスナーは監督も務めていたか。どうりでのんびりと締まりがない映画だった。
ジョンが初めて「蹴る鳥」を見たときの「蹴る鳥」とジョン、双方のおびえ方で笑ってしまった。どちらにとっても「未知との遭遇」だったから。白人から見た映画だからか「蹴る鳥」を「Wild Indian」と表現していた。そのせいで、「拳を握る女」との出会いも野生の動物との遭遇のように感じた。おそらく、それが本作の意図したところなのだろう。白人はインディアンを人間として扱っていなかったことの指摘だ。この時代以前のイギリスを描いた「アメイジング・グレイス」で見られたような人間性と同情心、そしてノブリス・オブリージェはアメリカの荒くれ者には求めてはならないのだろう。
西部劇ではインディアンは片言の英語を喋ることになっているのがお決まりだ。そしてなぜか理由もなくインディアンが白人入植者を襲う。本作でも、「拳を握る女」が家族を失うところにその残滓が残る。しかし、スー族は(オネエ言葉になっていたという話だが)ダコタ語を使う。日本語字幕はフォントを換えてあったのだが、原版でも英語字幕が使われたのだろう。この斬新さ。言葉を教えあわなければ、話もできない。アメリカ映画では相手が英語を学ぶのが通例だ。しかし、本作ではアメリカ人のジョンがダコタ語を学んだ。これが斬新だったのだろう。
もう一つ、本作で指摘すべきことがある。
アメリカ中西部はいわゆる、レッド・ステートと呼ばれる。共和党支持層だ。アメリカの保守層が多い地域だ。ジョンは砦で一人砦の保守に勤める。それは自然との対峙であるのか、インディアン(外の人間)との対峙であるのかは別なのだが。この一人、もしくは家族で生きていくための家(文字通り建物としての。日本のイエ制度ではない)を自然や他者から守り、そして自然を切り開いて農場を作って切り盛りする。自然対して突き上げた拳のような存在。どうも、この感覚がアメリカの保守層の持っている感覚のようなのだ。それを本作に感じた。