ビフォア・サンライズ 恋人までの距離
アメリカ人青年ジェシーと、ソルボンヌ大学に通うセリーヌは、ユーロートレインの車内で出会った瞬間から心が通い合うのを感じる。ウィーンで途中下車した2人は、それから14時間、街を歩きながら語り合い…そんな自然な会話の中から、彼らの人生観、価値観、そして心の奥の微妙な揺れ動きが見え隠れする。でも別れのときはもう迫ってきていた…。
Before Sunrise 1995年
感想
ウィーンへゆく予習を兼ねて二度目か三度目。さて、いくつかウィーンの写真をぶちこもう。
ジェシーとセリーヌが歩き始める一番始めのシーンがトラムでした。
これは空港バスから撮影したもの。だから青みがかった絵になっています。こういう「古い」型のトラムが結構走ってました。新しいトラムはあんまり情緒がなくて撮影してないんじゃないかな。赤と白はオーストリアの国旗の色と一緒ですね。

セリーヌとジェシーよろしく、後ろに乗ってみます。大抵二両がくっついて走っているのですが、正直後ろ側はおすすめしません。理由は安全の問題。
さて、二人の青臭く頭でっかちの会話は、身に覚えがあるだけにこっぱずかしい。
レコード店で聞く音楽がセリーヌのチョイスで「come here, come here」と男を呼ぶ歌だからジェシーが「いいの?いいの?」というそぶりをしていてセリーヌが気まずいような、イタズラっぽいような笑いを浮かべているところ。あそこでキスしないのがとても良い。キスは遊園地。「あなた、キスしたいの?」と聞かなきゃならない。ただでさえ、男と女がお互いに必ずしも読みあえるわけではないのに、持っている背景の文化がかなり違うと、本当に読めない。そのうちだんだんその人の「文脈」が読めるようになってきて、聞かなくても良くなってくる。そのリアリティ。喋りながら、くるっとセリーヌがジェシーの腕を自分の腰に回すのがとてもいい感じ。次のシーンがダンサーを見るところに繋がっているのだろうか。
「何かをやり遂げたい。何かをしたい。でもできるのだろうか?」
世の中に出る前の学生の恐怖。それを押し殺し、世の中に出て飼いならされる。青臭くて頭でっかちで、気まずいのだが、あそこで捨てられる人と捨てられない人がいるのだろうなあ。
こうしてみると、イーサン・ホークってすごく野心的な目をしている。
知性と品のなさが同居していて、それが受けたっぽい。
ウィーンぶらぶら、ロケ地ぶらぶら
ウィーンぶらぶら歩きをしていると、結局「ビフォア・サンライズ」のロケ地に行き当たります。
だって、適当にマッピングしたらこんなだもん。

まじやばいじゃん。
20年でこう荒廃したのか。それとも、夜をチョイスすることによって隠していたのかな。
対岸もこんな感じ。
ちっとも「美しき青きドナウ」じゃないじゃん。
青いのは確かだ。
目の前のトラックはゴミトラックでした。
横をUバーンが通っています。
連想したのは「バナナフィッシュ」という漫画で主人公アッシュが元の部下だったオーサーを倒すシーン。ニューヨークの真夜中の地下鉄が舞台だったのです。ストリートギャングなのです。今の(というよりもう5年近く前の話ですが)ニューヨークの地下鉄ってこういう落書きも少ないんですよ。ウィーン、やばい。
連絡先を交換しようか。いや、そんな野暮なことはやめよう。そう名残を惜しむシーンが船上レストラン。

夜に行こうと思っていたのですが、やめたやめた。予約してなくてよかった。
シュウェーデンプラッツ駅に戻り、目的地へ。
自然史博物館
「歩こう!」のシーンは自然史博物館。

撮影したかったのはマリアテレジア像の方だった。
街歩き
また、あるとき、いわゆるリンク(中心街)内部を歩いていました。
ふっと人気がなくなります。遠くに前を歩いていた人の足音が聞こえます。

セリーヌとジェシーが青臭いことを言いながら歩いていた感じです。
人が頻繁に出入りする建物があったのでそこに入ってみたら、中庭を抜けて別の通りに出た、とかぶらぶらすると楽しかったです。
教会
歩いていると一つだけ非常に古い建物がありました。
よく見ると赤と白のリボンがかけられていてどうも、オーストリア共和国の持ち物らしい。古い建物には大抵赤と白のリボンがかけられていることが多いのですよ。

後で調べると、ウィーン最古の教会、ルプレヒト教会だったようです。中に入れたか不明。ドアを開けてみたらよかったのかな。
こういう静かな場所でセリーヌとジェシーがお茶をしていましたね。
マリア・アム・ゲシュターゼ教会には行きました。
内部はそこそこ豪華。シュテファン寺院とは比べ物になりません。でも、こちらの方が「信仰」がある感じ。ここで無神論者だと告白するかあ。
市民公園

金曜日の夕方だもんね。
プラーター
ウィーンを出る前の日、少し時間があったのでプラーターへ。

観覧車に乗るつもりはなかったけれど、ぶらぶらしようかと思っていました。
観覧車の近くまで行って「あー、ただの遊園地か」と引き返したのです。オーストリア女子に「プラーターに行った?」と聞かれて「行ったけど、遊園地だったね」「それだけ?」「何かあった?」「歴史的な場所なのよ」だそうです。何かあったのかなあ。
思った以上にいろいろ行ってました。
アルベルティーナ宮はしょっちゅうその前を通っていたのですが、撮影モードではないときだったのです。
ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)(字幕版)
ビフォア・サンセット
『恋人までの距離<ディスタンス>』から9年後の、恋人たちの“今”。忘れられない人と再会したら、あなたはどうしますか?恋人との再会、夕暮れまでの85分、私たちが交わした1000の言葉と、ただひとつの知りたいこと。9年前の恋の結末。忘れられない人がいる、すべての人のための85分。
Before Sunset 2004年
感想
監督はそのままリチャード・リンクレイター。
世界について。帝国主義について。「帝国主義の国ってどこの国?」「あは」
この会話のこそばゆさ。ほんの数日前の私と友人の会話だ。32歳のセリーヌ。私たちの年齢じゃないか。
やりたいことはたくさんある。でも、日々に追われ、そして自分の能力の限界が見え始め、なにもできそうにない。
過去の、この10年間の「あのときこうしていれば」。
小さいものでもその連続だ。
実はオーストリアで友人と9年ぶりに再会した。
ジェシーとセリーナとは違って私たちはヘテロセクシュアルの二人の女の子で、この9年間連絡を取り続けていた。
私たちの会話はこんなに悲しいものばかりではなかったけれど。「信じられる?あれからもう9年だよ?あの頃言ったの覚えてる?10年もして再会するとするじゃない。一緒にいた女の子たちみんなで。みーんな子供をいっぱい連れていて、旦那も連れていてさ。子供を旦那たちに任せておしゃべりに興じるてるのよ、なーんて言ってたのに、みんな結婚してない!!びっくりするよね」とかそんな話はあった。
私の方はさておき、友人は良い意味で変わっていた。
昔はずーっと不満顔で口がへの字になっていたような人だった。自信もないし。
今は何かにふっきれたような顔をしていた。こんなに表情豊かな人だとは知らなかったと言うほど表情がくるくる変わり、とってもかわいい。リア充ってこういうことか!という感じ。ハッピーシングルライフだった。
逆方向に回転してしまった人は何人も知っている。
一番ひどいのは、10年前はそれなりにリア充だったのに今は他人がどう暮らしているかが気になってしょうがない、といった人になってしまった人。仮にA子としよう。その方とは話していて本当に気持ち悪かったのだが、「で?」「だから?」「どうしてそんなことが気になるわけ?」「どうでもよくない?」(本当にわけがわからなかった)と返してしまい、絶交していただいた。後から考えるとどうもA子は自分の現状に多大に不満があり、自分より不幸な人を見つけたかったらしい。そのターゲットに私がされたようだ。元々私が向こうを重要視していなかったこと、私が自分は不幸だと思っていなかったこと、などなどが重なった。どうやらその方はかつて「A子<里子」だった相手(私)に、今は「里子<A子」だと思って欲しかったのに、相手にとってはかつては「A子<<<<<<<<<<<<里子」と思われていたあげく、今でも「A子<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<里子」と思っていると思ったようだ。
どうでも良い相手、というものはそういうレベルではないのだが。高校の頃は眼中になかったよ。今は「びっくりさせられた相手」として記憶に残ってるよ。A子さん。私の眼中に入って、良かったね・・・
さて、本作のセリーヌとジェシー。
私とオーストリア女子のようにイーブンに得難い友でもなく、私とA子のように不平等な関係だったわけでもない二人。二人は互いを運命の相手と思い込み、生きてきた。大人になったらしいけれど、ちっとも実感が沸かず、ただただ「できなかった」ことの積み重ねだ。この二人が再会してしまった。二人とも現状に悪い意味で満足できない人たちだ。いつも過去に生きている。そんな二人はどう決断するのか。
三作目があるせいで、二人が二人で生きる選択をしたことを知っている。
ただ、後ろ向きに生きる二人が一緒にいても、いい結果は生まないのではないかと感じた。
今は互いに「魅力的」だと感じている。それは、二人とも相手に過去を見ているからだ。しかし、生活は違う。輝きを失ったセリーヌとジェシー。上手くいくわけがない。
確か、イーサン・ホークとユマ・サーマンの離婚は本作の直後だったような記憶がある。
それを知っているからこそ、ジェシーの「上手くいっていない結婚生活」が不気味にリアリティをもって迫ってくる。しかも、前回は「イーサン・ホークの知性と下品さの同居した」ところが魅力的だったのに、今回は知性がなくなり、取り繕おうとしても取り繕えない下品さ。
ジュリー・デルピーがそこそこ「充実した」顔をしているのに対して、イーサン・ホークの不満顔。これでは上手くいかないだろう、と「セリーヌとジェシー」二人の未来を暗示させる。それはそれなりに、良い配役と良い仕事だった、ということだろう。
ビフォア・ミッドナイト
18年前の出会い、9年前の再会。そして本物の愛にたどり着く、真夜中までの数時間―。恋愛映画の金字塔シリーズ、待望の最終章。
Before Midnight 2013年
感想
監督はリチャード・リンクレイター。
前作、「ビフォア・サンセット」が「今の」私たちの物語だ。
「(面白すぎて)忘れられない」人がいたり。その前の「ビフォア・サンライズ」は10年前の私たち。そこから机上の空論から少し地に足がつく。
今度は私たちの十年後。
だったら、予想はできても、「そうだそうだ」とはいかない。
積もり積もった不満を描くのが本当に上手い。アドリブのようであって、完全に計算し尽くされた作品だ。全てが計算ずくでアドリブを廃さないとここまでの積み重なりと、コップから水が溢れ出るようなセリーヌの不満は描けないだろう。
「私が生まれたばかりの双子を抱えて襲われそうになっても、暴漢に哀れまれるような状態だった」そんなときに、ジェシーの携帯が「急に壊れて」、その後にセクシーなメールが届いていたら?
セリーヌはジェシーは不便の共有ができない、共感能力が低いと思うのだ。
ジェシーは全てを捨ててセリーヌを追ってパリに行った。勤務先のあるセリーヌとは違い、ジェシーは作家だから身軽だった。
追ったことを恩着せがましく言うつもりはないけれど、セリーヌが外に出ている間子供たちの面倒を見たのはジェシーだ。
セリーヌに言わせれば、講演旅行に出ている間は一人きり。面倒を見ている?雑用をしている?掃除も選択も食事を作るのもセリーヌ。
この夏の休暇だって男尊女卑なギリシャで、家事をさせられている。パリでは仕事が待っているのに。パリから電話がかかるのに、仕事ができない!
見ていて、セリーヌが同じくジュリー・デルピーの「恋人たちの二日間」のマリオンに被る。「ニューヨーク、恋人たちの二日間」のマリオンのほうか。全てマリオン、マリオン、マリオンでマリオンはいっぱいいっぱいになってヴィンセント・ギャロと取っ組み合いになる。
セリーヌもいっぱいいっぱいだ。
ジェシーの子供はかわいい。自分だってニューヨークに住んだことはある。それでも、アメリカで暮らすことはできない。ジェシーは別れるのは嫌だと言う。
「思春期のあの子のそばにいてやれない」
その負い目をそのうち娘たちにも感じるだろう。
自己実現と、愛と、側にいることと、娘たち。
2022年。さらに9年後のセリーヌとジェシーはどうなっているだろう。
ジェシーはしばらくパリとシカゴを往復せざるを得ない。愛ある別居だ。ハンクが家を出れば、アメリカにいる必要はない。パリの娘たちと過ごしたいが、思春期の娘たちに嫌われて、かな。
2022年を待とう。