函館太陽シネマにて。
主演が誰かすら確認せずに見に行ったのが正解だったかなと思う。予告編も見ずに行ったもん。歌舞伎はせいぜい基礎くらいしか知らないのだ。
我ながらなぜに函館?と思うけど。鎮痛剤の影響で、車の運転禁止なわたくし。我が市の映画館まで直通のバスがかつてはあったけれど、もうなくなった。ということで、めーっちゃ時間がかかるようになってしまった。東西隣の隣の市にはそれぞれ便利なところに映画館あるけどね。湿度でダルダルで。湿度から逃げるつもりで来た函館は予想に反して天気があまり良くなく、湿度が高くて、ダウン気味で。予定していた観光がとてもじゃねえや…とポシャってしまいましてね。
みたいなと思ったら、悪くない時間にあるじゃないの。ということです。
これがまた、雰囲気抜群で。
物語が70年代からスタートして、現代まで。この建物はいくら新しくても90年代かなあ…と思われる雰囲気なんですよ。そこまで含めて満足。
ということで、ここからはどうしてもネタバレしちゃう感想文だから、見てから戻ってきておくれ。
若い、それも顔のきれいな男が二人いたら、びーのえる認定しちゃうほどの、びーえるサングラスをかけてるけど、これはびーのえる認定しないなあ。
だって。確かに、しゅんちゃんがきくちゃんの才能を一番理解していたと思うけど。びーのえる目線なら、しゅんちゃんの片思いなら、まあ、ね。しかし、吉沢亮の舞の前に横浜流星の芸はかすむのよ。そういう演出ですし?
きくちゃんからしゅんちゃんには、特になくない?「今一番ほしいのは、守ってくれるしゅんちゃんの血」ではあるけど。「しゅんちゃんの血」は世襲が優先される歌舞伎界の象徴でしかない。
それは彰子ちゃんに置き換わる。
しゅんちゃんの最期も、きくちゃんじゃない人でも理解しただろうし。確かにきくちゃんには、二代目の最期が重なってただろうけど。それは二人がともに過ごした、そしてともに過ごさなかった年月でしかない。しゅんちゃんの追悼公演だってそう。共に過ごした人だった、というだけ。きくちゃんよりも、興行主の意向が大きいかもしれないし。
だってきくちゃんって、歌舞伎で頭がいっぱいなんだから。
そもそもしゅんちゃんが糖尿病だから、きくちゃんが呼び戻された。それだけ。あの段階ではまだしゅんちゃんは、足を切る必要はなかったけれど、感覚はもう無くなってたんでしょうから、予想の範囲内だったでしょう。しゅんちゃんにとって、息子を託すのに最適な相手がきくちゃんだった。もしもしゅんちゃんが足を切らねばならない状況ではなかったら、きくちゃんが主演で戻るのはもっと先だったでしょうに。
吉沢亮、恐ろしい子…本当に怖い。アイリスオーヤマのCMでの半分狂ったような雰囲気が微かにあって。でもいつアイリスオーヤマって言いはじめないかと思っちゃった。あの濃い目の顔は、長崎というより鹿児島かな宮崎かな、な雰囲気だけどメイクが映えるのね。
花井東一郎、そして三代目花井半次郎が踊り始めると、清楚で妖艶。ドサ周りをしてる間に、魅入られた男が出てきてしまうけれど、あれはわかる。あんな距離で目があってしまったら、もうおしまい…
それは演出の力だ、演目も少ない、というのはあると思う。それでも、一年程度の練習で仕上がっちゃったのは恐ろしい。
本人が泥酔事件を起こしてたけれど、三代目花井半次郎に入り込み過ぎたのかしら。きくちゃんは昭和の大スターだから、あの喧嘩っ早さも、モンモン背負ってるのも、春江の後に芸妓さんとの間に隠し子がいても、なんだかんだと許されて人間国宝になっても。現代では許されないから。早く三代目花井半次郎から抜けるんだ…
横浜流星の現代的な顔立ちも、案外かわいらしい仕上がりで。御曹司の花井半弥なので、若手の本物の御曹司を使うと良いのにと思ったけれど。吉沢亮にオーバーキルされる役は…後々に影響しかねない。
ちょい役で出てくる中村鴈治郎が歌舞伎の指導(原作者の吉田修一は鴈治郎の付き人までやって書いた)をしたらしいけど、この仕上がりには満足でしょう。
なんとなく、花井半弥も三代目花井半次郎も、なんでかな、中村勘三郎を思い出した。勘九郎時代の、「奈落~歌舞伎座の怪人」が本当におかしくてねえ。あの人はテレビでしか見てないんだけど、とにかく面白かった。
作品としては、どうしても、すでに古典になっている「覇王別姫」との比較になってしまう。あれは京劇役者を切り口にして、日中戦争や文化大革命を描いた。
でも本作はバブル期もバブルの崩壊も全部無視しちゃう。時代として、クラブでブイブイしてるしゅんちゃんのカットがあっても良かったのに。デンデンデンデデンデンデンデって「ダンシングヒーロー」がかかってても良くて、って、いやいや、そりゃ花井東一郎が丸刈りの陳洛軍になりかねないwww話が違う!
バブル崩壊後はさ。日舞が流行らなくなった時代だったから。きくちゃんが好きでもなんでもない彰子と一緒にドサ回りして食い繋ぐのは、おそらくしゅんちゃんが春江とドサ回りしたときよりも稼げなかったでしょう。
そもそも景気も悪い時代だから人間国宝の小野川万菊が品川の、一泊1300円だったっけ?な木賃宿で寝込んでる。あの人はおそらくそのままお亡くなりになるんでしょうよ。
その万菊を演じたのは田中泯。コンテンポラリーダンスの人は、古典もいけるのね…鷺娘はさすがだった。しっかし最後の吉沢亮の鷺娘もすごかった。
脱線したけどさ。だからね、時代をもう少し描こめば、横糸が80年代から90年代の日本になったのにな、と残念だったわけ。
まあ、それは、覇王別姫を見てるから思うのかもしれない。
覇王別姫が描いた日中戦争と文革という受難。それがなかった日本は幸せよな、と、思ってた。
そりゃ、しゅんちゃんもきくちゃんも、一つ一つは個人の大変な受難です。確かに。目の前に自分以上の芸を見せる天才がいる。きくちゃんの天才ぶりを一番よく理解したのは、おそらくしゅんちゃん。きくちゃんは、隣にどんなに自分が上手く演じても、越えることができない「血」の持ち主がいる。この二つは受難としか言いようがない。
ところが、全体として見れば、悪魔と取引して、絶頂から奈落へ、そして這い上がっていくという、「三代目花井半次郎一代記」に終始して終わる。
個人の物語だから小粒なのよね。
歌舞伎パートが素晴らしいのよ、本作は。私はレスリー・チャンの程蝶衣よりも、吉沢亮の三代目花井半次郎の方がうまかったとすら思う。しかし、作品としては編集などなんか雑な気がするけど、そこも目を瞑っても「覇王別姫」とは比べものにならない。
あまりに小粒。
ただ、翻って考えてみれば、その「個人」こそが70年代から現代の日本なのだと言えばそうだし…
日本はなんて穏やかな、失われた30年だったんでしょうね、それは「覇王別姫」の激動の30年よりはるかに幸せなことではないかな。
さて、おそらく継母らしい宮澤エマがすっごい貫禄。長崎の芸者さんだったのかな?踊ってたら継子が踊りはじめて、なんて絵が見えた。あの継母さん、その後はどうなったのかな。
もう1人、寺島しのぶの老いの演技。寺島しのぶのキャラは業の深い役だけど、本当に業の深い演技だったよ、さすがだよ。寺島しのぶの、音羽屋のお嬢さんとして生まれて、歌舞伎役者の娘であり姉であり、母であっても、歌舞伎役者にはなれない人生。同時に音羽屋から離れたくなかったんだろうな…それを知らなくても、迫力あったねえ。渡辺謙を完全に食ってた。
二代目花井半次郎は渡辺謙。本人が演じるシーンはまともにないけど、この役を中村鴈治郎本人がやらなかったのは、鴈治郎の業かな。
子役も良くて。吉沢亮になるだろうし、高畑充希になるだろうというのが大変良かった。