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KANO 1931海の向こうの甲子園

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かつて中等学校野球の名門・松山商業を監督として率いた、近藤兵太郎(永瀬正敏)は、台湾南部の嘉義の学校で簿記を教えていた。
地元の嘉義農林学校から野球の指導を乞われていたものの、過去の出来事から頑なに拒否していた近藤だが、ある日偶然、野球部の練習を目にし、抑えていた野球への情熱が再燃、自らの過去と向き合い、監督を引き受ける。
近藤は、鬼監督と呼ばれながらも「甲子園出場」を目標に掲げ、打撃力のある台湾人(漢人)、俊足の台湾原住民、守備に長けている日本人と、3民族のそれぞれの強みを生かし、選手達を分け隔てなく独自の方法で特訓した。
近藤の猛特訓によりチームの絆は深まり、実力をつけ、遂に嘉農野球部【KANO】は全島大会に臨んだ。そして、台湾予選大会決勝戦で、日本人のみの常勝チームであった台北商業を打ち負かし、南部の学校として初めて優勝を果たす。
優勝旗を誇らしげに掲げ嘉義へと戻ってきた彼らを待っていたのは、市民を挙げての大祝賀パレ ードと、水利技術者の八田興一(大沢たかお)が長い年月をかけて完成させた嘉南大圳の烏山頭ダムから流れ出る水が田畑を潤す光景だった。
1931年夏。ついに甲子園への切符を手にした嘉農野球部【KANO】は、台湾の代表チームとして日本内地へと赴く。
甲子園では全く無名の嘉農野球部【KANO】は次々と強豪を破り、ダークホ ースの台頭にマスコミや観衆も一躍注目する。
試合が進むごとに、エースピ ッチャー呉(アキラ)の気持ちの入った投球、1球たりとも諦めない選手たちの感動的なプレイに人々は熱狂、嘉農野球部【KANO】は大観衆の心を掴む。
そしてたどり着いた決勝戦の当日、ピッチャー呉の投球に異変が…。

原題:KANO 2014年

感想

なぜか本作が公開されたときに「バンクーバーの朝日」「アゲイン 28年目の甲子園」と野球映画がぶつけられていた。おそらく一番公開劇場数が少ないのが本作だろう。

劇場で見ない種類の作品だが、行けないわけではない距離の映画館で見られるなら見ようじゃないか。台湾映画がこんなど田舎で見られる機会は滅多にないのだから、というわけで、行ってきた。

躍動する体。全身で「野球って楽しい」を表現する嘉義の子たち。いいなあ。

呉明捷を演じた曹佑寧は本当に野球選手らしく、もともとはプロの俳優ではない。爽やかで健康的。素朴さと同居する華やかさ。いい人材を見つけたものだ。そういえば高雄で曹佑寧みたいなハンサムな女の子が店員してたなあ。おおイケメンと思ったら女の子でがっかりしたのだった。

言語

もちろん、曹佑寧をはじめ、なめらかではない日本語のオンパレードだった。しかし、台湾でお茶屋めぐりをするとまだ日本語世代が店頭におられることがある。彼らの日本語をよく再現していた。

エンドロールに「陰山征彦」(海角七号で手紙をほぼ棒読みしていた人)や「北村豊晴」(「一万年愛してる」の監督)の名前が日本語指導などのところにあった。台湾の映画・ドラマ制作事情をよく知る日本人がしっかりと入っていてきっちりと指導したのだろう。ただ、現代的すぎたような気はしないでもないが。

もう一つ、呉明捷と阿静の会話が全く聞き取れなかった。あー。北京語ではないんだ、この人たち。客家語か閩南語(福建語)だったのだろう。

日本語の滑らかさと、さすがに日本で名前の通った俳優たちを使うことができたのはこれまでウェイ・ダーション組の培ってきた経験と実績の賜物だろう。

田中千絵ではなく坂井真紀を近藤夫人に使えたのは僥倖である。表情のあまりない近藤は演じやすいようで最も演じにくい。表情も仕草も使わずに野球への愛と嘉農の子達への愛情を表現しなければなならないのだから。永瀬正敏を迎えることができたのは、やはりウェイ・ダーション組の培ってきた経験と実績の賜物だ。

名前

セデック・バレ」では「花岡一郎」などとセデック族は日本名を使う人たちがいた。
本作では「平野くんはアミ族出身です」ど実況がいう。呉明捷には「アキラ」というあだ名はあったが「ご・めいしょう」と呼ばれていた。日本制作で作ればこういうところにフィクションがありそうだが、被支配者であった台湾がそう描くならそうなのだろう。創氏改名は全員ではなかったんだ。(そういえば、「セデック・バレ」でも「花岡初子」と「マホン」と日本名を名乗る人とそうではない人がいた。)

馬志翔

本作はウェイ・ダーション作品にカウントしてしまう。確かに脚本もプロデュースも彼の手になるものだ。だが、実際に監督をしたのは馬志翔。「セデック・バレ」で日本側について、モーナたちを追い詰めた、タイモ・ワリスを演じた人。

ウェイ・ダーション本人は野球経験がないので野球経験のある人に任せたという。

躍動する体、少年たちのよろこび。「いーちにいさん、ことりーさん」と変な歌を歌いながら踊り出す子供達。確かに、こういう作品ではウェイ・ダーションの演出ではのったりと甘すぎそうだ。スポーツの喜びを知らない私にすら運動っていいじゃない?と思わされた。

ひょっとすると、ウェイ・ダーションよりも馬志翔の方が監督としては上かもしれない。また、ウェイ・ダーション演出ならば選手間での民族の違いなどのエピソードが入ったかもしれない。「セデック・バレ」と対になる本作だが、力点のポイントはあくまでも「この子たちを見てください。野球の好きな子たちなんですよ」なのである。

魏徳聖のこれまでの作品の意図

それでも、本作はウェイ・ダーションものとしてカウントされる運命にある。

これまで「海角七号」「セデック・バレ 太陽の旗」「セデック・バレ 虹の橋」と見てきた。本作ではプロデュースだ。ずっと日本がこの人のテーマのようにも見える。そうではない。

以前にも書いたように、「台湾のアイデンティティー」がこの監督のテーマだろう。

台湾におけるアイデンティティというものは、正直私にはよくわからない。けれど、議長の描き方を見るに、本省人、外省人、客家人、と言われるように、おのおのの出身母体にあったのではないか、と思う。もう一つ、本省人には支配してきた外省人への反感などいろいろあっただろう。けれど、それを乗り越える台湾、バンドはそんなメタファーではないかと感じた。日本統治時代があった。国民党独裁時代があった。そして民主化された。今度は中国(大陸)だ。その中で人々は振り回され、また対立してきた。けれど、全てを飲み込んだ「台湾」というアイデンティティを形成しようとしているのではないかと感じたのだ。

「セデック・バレ」は日本と台湾原住民が「同じ」だの、「日本への愛」でもなければ、反日映画でもない。

今回も監督は全てを「飲んだ」のである。特に「植民地支配」の非対等性を飲み、非対等な植民地支配をも包括したものが「台湾のアイデンティティ」である、と示したのである。本作は、誰にむけられた作品なのか。台湾人にむけられた、非常にドメスティックな作品なのである。ドメスティックであるのだが、きちんと理解できるのは日本語話者(台湾の内部にこの細かなニュアンスを理解できる人は多くはないだろう)とセデック語話者(台湾でも圧倒的なマイノリティ)でしかない、という、奇妙な作品なのだ。それが、台湾という、先住民族がいて、漢人がいて、別の民族(日本人)に植民地化され、日本人の去った後に大陸人に支配された、という複雑な背景を持つ土地の物語なのだ。

ならば、本作は?

セデック・バレと本作の時間的地理的な位置

ふと気になった。
嘉義ってどこなんだろう。「セデック・バレ」の虐殺事件の舞台と距離的にどれくらいあるのだろう。

車でたった二時間で行ける距離だ。

霧社事件は昭和五年。あれ?そういえば、呉明捷が持つ(台湾での)優勝旗は昭和六年。
同じ地区、全く同じ時代の物語だった。

本作は民族対立を描いた「セデック・バレ」から再び「統合」を描く。この二作(三作?)はセットで見るべきだ。

本作におけるウェイ・ダーションの意図

「大東亜共栄圏」は夢物語でしかない。いや、日本の植民地支配を正当化するだけの目的しかない机上の空論だった。しかし、嘉農のこのチームには日本人、漢人、先住民族の違いを乗り越え単純に野球を愛する少年たちの姿があった。

やはり、ウェイ・ダーションは「飲んだ」のである。「セデック・バレ」の悲劇も、同時代の「嘉農」の喜びも。

植民地支配の非対称性、そしてその中で台湾のために尽力した日本人がいなかったわけではないことも。八田は台湾の農業事情を改善させたし、近藤は厳しい監督だったが、対等に扱い、小馬鹿にする日本人には言い返した。ウェイ・ダーションは全てを飲み込み、「台湾」を描こうとする。

日本では好意的に受け止められるであろう本作は、台湾が日本にすりよる作品として映画を自分なりに見ようともしないネトウヨに扱われそうなのが気持ちが悪い。

本作を見た一種お花畑な人々が台湾は夢の土地と思い込みそうだが、そうではない。夢の土地と思い込む人々こそ、本作において「日本語わかる?にほんご」と言った記者の正統な子孫である。

ウェイ・ダーションものは不気味なほど私の郷愁を誘う。しかし、知るわけのない呉明捷、あの時代の台湾だ。それなのに妙に「知っている」ような気分になってしまう。自らがあの記者の正統な子孫になってしまわないように気をつけなければならない。

KANO~1931海の向こうの甲子園~

KANO~1931海の向こうの甲子園~

永瀬正敏, 大沢たかお, 坂井真紀, ツァオ・ヨウニン, 伊川東吾
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コメント

  1. […] 過去への郷愁が強いのは、KANOそっくりなのだが、彼らの置かれた環境と、沙田の少年たちの置かれた環境はあまりに違いすぎる。 […]

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